毎年、いつ見ても桜はきれい。
この時期がすぐに終わってしまうのが残念なのも毎年一緒だ。
暖かくなって身体も緩む。
さくら、さくらで、道の色んなところにピンクが顔を出している。
もやっとした日差しは夢の中にいるようだ。
最近、夕方は景色が青くなる。
青い世界も夢のようだ。
いったい僕達はどこに居るのだろう。
今年の夏は合宿の後、岐阜で公演をする。
毎度の反省点として、アトリエの成り立ちで時間が終わってしまうので、
今回はその辺は省略させて頂いて、もう少し先の話をしたい。
まあ、教育関係の方達の前なので、教育に繋がるテーマで行こうと思う。
色々とお話しする機会は多いけれど、中身は一緒だ。
僕達はずっと制作の場を見ているだけで、その経験は限られたものだから。
どのような環境が感覚を開くのか、人のこころにどんな可能性があるのか。
喜び合う場づくり、そんなところがテーマの中心だ。
それにしても毎日やっていても、
みんなで場を良くすること、感覚を動かして絵を描くこと、
その中に無限の可能性を実感している。
日々、瞬間瞬間に新しいものが見えてくるのだから、終わりがない。
暖かい空気の中、街を歩く。
自転車で買い物へ行く途中や、散歩している時、
頭の中で宇多田ヒカルの音楽がなっている。
最近、ずっと聴いていたせいか。
しばらく前に赤嶺ちゃんが貸してくれたのだけど、
なかなか時間がなくて聴けていなかった。
最近、夜になるとこれをずっと聴いていたので、
メロディーや言葉が入ってきた。
特に動いている時、スピードにのっている時に彼女の音楽が聴こえてくる。
宇多田ヒカルにはスピードというか、疾走感のようなものがある。
どこにも辿り着けないことが分かっているのに、
ただ走りつつけなければいけない。ただスピードをあげていかなければならない。
どこにも行くことは出来ないし、これ以上なにもおきない。
でも、ひたすら走る。孤独で切ない疾走感。
いつでも、人にはそんな部分がある。
桜の淡い色や匂いも、自分の中に入って行く。
うとうとしていると、いろんな感覚が蘇ってくる。
朝5時から、DVDを2本たてつづけに見た。
2本ともクリント・イースト・ウッド監督作品。
稲垣君に進められていて、これもずっと見ようと思っていて、
昨日、ツタヤで借りてきた。
「ミスティック・リバー」と「ヒア アフター」という作品。
これで、クリント・イースト・ウッドは見なきゃ、という人になった。
2作とも良かった。
ミスティックリバーは残酷で救いがない感じが強いし、
ヒアアフターは穏やかになってはいるけど、あの世や霊能が入っていて、
物語としてはやや破綻している。
でも、印象としては2作とも全く変わらないのが不思議だ。
同じことを描き方を変えているに過ぎない。
それにしても、クリント・イースト・ウッドの世界観は凄い。
どこであの世界観をつかんだのだろう。謎だ。
ミスティックリバーのトラウマや暴力も、
ヒアアフターの霊能やあの世も、実は本当は何でも良かったはずだ。
あんなのはあの世界を書くための小道具にすぎない。
では、何が描きたいのかといえば、
まあ、「むこう側」の世界といえるだろうか。
むこう側と言っても幻想でもなければ、あの世でもないし、
見えない世界のようなことではない。
あらゆる芸術が問題にしているのは、そのむこう側しかないだろう。
むこう側というのは、一つのリアリティとして実在する世界だ。
例えば形が形になる前に、ものがものになる前に、
そのものを生み出す動きのようなものがある。
今、僕達が見ている世界の奥に、この世界をこの世界たらしめる動きがある。
それがむこう側の世界だ。
制作の場について、よく言っていることだけど、
僕達は絵が絵として成立する以前の創造性の運動を見ている。
言葉を聞くときは、言葉の奥にあるこころの動きを見る。
あるいは言葉になる以前の思いを感じる。
音を聴く時、音にならない音を聴く。
色や形を見ていても、色の奥にあるもの、形の奥にあるものを感じることだ。
クリント・イースト・ウッドはおそらく、
この世界の奥に、この世界を創っているもっと大きな無限のような、
一つの世界を見ているのだろう。