2013年3月9日土曜日

同時ということ

すっかり暖かくなった。
僕のいる二階は日当りが良くて暑いくらいになる。
こういう気候になってくると散歩がしたくなる。
でも、花粉も多いようだ。

木曜日はアトリエの仕事で原稿を書いていた。
ブログの文章ならいくらでも書けるのだけど、
こちらは久しぶりに書いているので、なかなか言葉が出て来ない。
気分を変えてコーヒーをドリップしたり音楽をかけたりする。

割合に場に入っていて、その残像の様なものを反芻している時期がある。
これは僕がいつも言う、場を離れればもう何も残らない、
ということと矛盾するのだけど。
でも、言葉で書くと矛盾は避けられない。
場での経験や感じが、何度も細胞の中で生き返ってきて、
無限に折り重なって行く。
経験と経験、場面と場面、音や空気や匂い、それらが無限に重なって行く。
すべてが呼吸し、すべてが輝き、すべてが響き合う。
そんな情景がはっきり見えるところまでいくと、何か場にも良い影響がある。

こういう状況にある時は、なかなか文章を書くのが難しい。
話をすることや文章を書くことは、ある意味で纏めることだから。
纏めるとは、多様で複雑な現実にすじをつけることなので、
当然、ある部分は捨てて、どこかだけをピックアップしてクローズアップする。
話や文章はそれによって、分かりやすくエッセンスを抽出することが出来る。
でも、そのかわり単純化してしまうことになる。

先に書いた場の残響を細胞の中で蘇らせている時は、これの全く反対だ。
そこではピックアップやクローズアップをいっさい行わない。
すべては多様で複雑なまま、無限に戯れている。
目的もなく答えもない。
すじもなければ、纏まりもない。
分かろうとすることは、ここでは意味がない。

場での残響だけではなく、場に入っているその時も、
大切なのは方向付けではなく、多様な要素に気づいていることだ。
どんな小さな物事にも注意力を注ぐが、決してどこかだけを切り取らない。

前にも書いたことがあるけれど、「同時」に多様な次元にいることだ。
現実にも、こころの状態にも、そして言葉にも一つの要素にいくつもの層がある。
そのどの層にも注意を向けている。
この同時に行う。同時に扱う。同時に経験するということが大事だ。
普段の私達は現実を単純化しすぎている。
例えば、僕は沢山の人達が自分の中で生きているし、時に経験が再現される、
ということを書いた。
でも、これも一つ一つが順番に起きる訳ではない。
すべては同時に起きている。

なぜわざわざ、このような複雑な話を書いたかと言うと、
これは何も私達の日常生活とかけ離れたことではないからだ。

震災から2年。
あの頃も書いていたことだけど、
悲観するか、忘れるか、どちらかだけになってしまうと、
現実を適切に見て行くことも生きて行くことも難しい。
矛盾とも書いたけど、現実は矛盾しているものだ。
注意しつつ希望を捨てない。
明るく前向きに生きながら楽観しない。
恐ろしい現実に目を背けないで、しっかり直視するけど、恐れない。
矛盾の中で最善をつくしていくこと。
悲しみながらも笑い、笑いながらも悲しむ。

僕達の場ではどんなにつらい状況にある人でも笑う。
笑っていても、その人の中にある悲しみを忘れない。
どんなに泣いていても、その人の中にある笑顔を忘れない。

すべては同時にあり、同時に起きている。
その中でバランスを保ち、適切な判断をして行くためには、
多様な要素を同時に見つめる視点を養うことだ。

そんなことを思いながらも、文章をまとめることが出来た。
色々、音楽をかけてみたけど、最後はセシルテイラーを聴いていた。
「ライヴ・アット・ザ・カフェ・モンマルトル」というアルバム。
もしかしたら、これを聴いていたから、こんなことを考えたのかも知れない。
ここでのセシル・テイラーは、かなり複雑な音を重ねて行くが、
多分、一番本質は、すべての音を同時に出すような感覚だ。
複雑で無限にある音同士が同時に重なり、響き合う。

そうかあ、と気がつく。
なぜ、同時でなければならないのか、それは響き合うためだ。
響き合うことでそれぞれが活きていくのだ。

やっぱり場は人生だと思う。
だから良い悪いだけでなく、良いものも悪いものもバランスだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。