すっかり暖かくなった。
僕のいる二階は日当りが良くて暑いくらいになる。
こういう気候になってくると散歩がしたくなる。
でも、花粉も多いようだ。
木曜日はアトリエの仕事で原稿を書いていた。
ブログの文章ならいくらでも書けるのだけど、
こちらは久しぶりに書いているので、なかなか言葉が出て来ない。
気分を変えてコーヒーをドリップしたり音楽をかけたりする。
割合に場に入っていて、その残像の様なものを反芻している時期がある。
これは僕がいつも言う、場を離れればもう何も残らない、
ということと矛盾するのだけど。
でも、言葉で書くと矛盾は避けられない。
場での経験や感じが、何度も細胞の中で生き返ってきて、
無限に折り重なって行く。
経験と経験、場面と場面、音や空気や匂い、それらが無限に重なって行く。
すべてが呼吸し、すべてが輝き、すべてが響き合う。
そんな情景がはっきり見えるところまでいくと、何か場にも良い影響がある。
こういう状況にある時は、なかなか文章を書くのが難しい。
話をすることや文章を書くことは、ある意味で纏めることだから。
纏めるとは、多様で複雑な現実にすじをつけることなので、
当然、ある部分は捨てて、どこかだけをピックアップしてクローズアップする。
話や文章はそれによって、分かりやすくエッセンスを抽出することが出来る。
でも、そのかわり単純化してしまうことになる。
先に書いた場の残響を細胞の中で蘇らせている時は、これの全く反対だ。
そこではピックアップやクローズアップをいっさい行わない。
すべては多様で複雑なまま、無限に戯れている。
目的もなく答えもない。
すじもなければ、纏まりもない。
分かろうとすることは、ここでは意味がない。
場での残響だけではなく、場に入っているその時も、
大切なのは方向付けではなく、多様な要素に気づいていることだ。
どんな小さな物事にも注意力を注ぐが、決してどこかだけを切り取らない。
前にも書いたことがあるけれど、「同時」に多様な次元にいることだ。
現実にも、こころの状態にも、そして言葉にも一つの要素にいくつもの層がある。
そのどの層にも注意を向けている。
この同時に行う。同時に扱う。同時に経験するということが大事だ。
普段の私達は現実を単純化しすぎている。
例えば、僕は沢山の人達が自分の中で生きているし、時に経験が再現される、
ということを書いた。
でも、これも一つ一つが順番に起きる訳ではない。
すべては同時に起きている。
なぜわざわざ、このような複雑な話を書いたかと言うと、
これは何も私達の日常生活とかけ離れたことではないからだ。
震災から2年。
あの頃も書いていたことだけど、
悲観するか、忘れるか、どちらかだけになってしまうと、
現実を適切に見て行くことも生きて行くことも難しい。
矛盾とも書いたけど、現実は矛盾しているものだ。
注意しつつ希望を捨てない。
明るく前向きに生きながら楽観しない。
恐ろしい現実に目を背けないで、しっかり直視するけど、恐れない。
矛盾の中で最善をつくしていくこと。
悲しみながらも笑い、笑いながらも悲しむ。
僕達の場ではどんなにつらい状況にある人でも笑う。
笑っていても、その人の中にある悲しみを忘れない。
どんなに泣いていても、その人の中にある笑顔を忘れない。
すべては同時にあり、同時に起きている。
その中でバランスを保ち、適切な判断をして行くためには、
多様な要素を同時に見つめる視点を養うことだ。
そんなことを思いながらも、文章をまとめることが出来た。
色々、音楽をかけてみたけど、最後はセシルテイラーを聴いていた。
「ライヴ・アット・ザ・カフェ・モンマルトル」というアルバム。
もしかしたら、これを聴いていたから、こんなことを考えたのかも知れない。
ここでのセシル・テイラーは、かなり複雑な音を重ねて行くが、
多分、一番本質は、すべての音を同時に出すような感覚だ。
複雑で無限にある音同士が同時に重なり、響き合う。
そうかあ、と気がつく。
なぜ、同時でなければならないのか、それは響き合うためだ。
響き合うことでそれぞれが活きていくのだ。
やっぱり場は人生だと思う。
だから良い悪いだけでなく、良いものも悪いものもバランスだ。