さて、昨日の地震の揺れ方といい少し気持ちが悪い。
大きな地震はやはり、来るのではないだろうか。
何度か、ここでも書いて来ているが、放射能のことは考えていた方がいい。
がれき処理の受け入れの問題が騒がれている。
いくら言ってもきりがないので、この問題にはもう発言しない。
間違った考えがあふれているが、簡単にくい止める事は出来ない。
ただ、言葉で批判するだけになってしまうのなら、
もっと前向きな本当の生き方を真摯に模索しよう。
何がおきようと、生きようと死のうと、毅然と真実を求めよう。
良い生き方と人を幸せにする事だけを考えていればいい。
恐れや不安に支配されている時間はない。
真っすぐ挑むべき事が無限にあるのだから。
悠太のアレルギーで考えさせられる事は多い。
特に食べ物で出るのだけど、同じものでも少量なら反応がなかったりする。
体調もあることは確かだけど。
良く人から言われて来た「色んな種類を少しづつ」食べなさい、
という言葉の深さを思い知らされる。
たんに栄養バランスの話だとばかり思って来た。
でも、つまりはリスクを減らす事であったり、他にも色んな意味がありそうだ。
だから、最近色んな種類をすこしづつという考えを知ろうと思っている。
たとえば、その食べ物をたくさん食べるより、少ししか食べない方が、
リスクが少ないのは誰でも考えそうなことだ。
でも、多分それだけではないような気がする。
つまり、少量にする事より、
むしろここでは色んな種類ということが重要なのではないか。
多様性が一つの効果になるような気がする。
それぞれの悪いものを消し、それぞれのいいのもが活かされる。
そういう可能性だってある。
このことは何にでも言えると思う。
良いものだけ、便利なものだけと考えて他の要素を捨てていくと、
どうなるか。それが今の時代と人の考えの根本にある。
制作の場でも、人生でもそうだ。
種類を減らして機能的にしても上手くいかない。
色んな種類の考えや、人や視点があってはじめて良い場になる。
人生においても色んな経験をして、色んな視点を持つことが大切だ。
一種類の経験ばかり深めようとしても、そうはいかない。
何にでも興味をもって関わってみる。
一つの経験が他の経験をより深めてくれる。
僕が一つの立場や考えに固執しないようにしているのもそのためだ。
ここでも読みようによっては、矛盾したことも書いているだろう。
でも、世界には良いだけのものも、悪いだけのものも存在しない。
ここはいいけど、そこは悪い、という複雑な構造がある。
一番危険なのはこれが絶対という考え方だ。
制作の場においてはスタッフとして、フラットな状態を保つということを書いた。
空っぽになってどこにも偏らない意識でいると。
これは勿論、一番大事なことではあるが、
もう一つ、自分の中にたくさんの視点と考えを同時に持つということも、
大切なこころの使い方と言える。
これは少し訓練しなければ出来ないことだが、
とても力があるこころの使い方だ。
意識を一点に集中させずに、すべての場所に分散させることや、
いくつものことを同時におこなうことや、
様々な角度を同時に見ると言うことが出来ると、
制作の場でも人生でも適切な動きがとれる。
俯瞰で見ることが出来るというのは必須条件だが、
それだけでなく、
時に自分も出来事もバラバラにして同時に扱うということも必要になる。
これもある意味で、色んな種類を少しづつの考え方だ。
でも、色んな種類を少しづつは、実践するのが大変だ。
食に関しては特になかなか時間がない。
こころの使い方としても、現代人が最も苦手としているものだ。
なぜ、色んな種類を少しづつというこころの動かし方が出来ないかと言うと、
「所有」というこれまたやっかいな、
偏ったこころの使い方になれてしまっているからだ。
所有に関しては長くなるので別のきかいに書く。
ただ、言えるのはここでも、ダウン症の人たちの在り方が参考になると言うことだ。
彼らは一つの見解に固執しないし、同時にたくさんの視点を持っている。
さらに「所有」というこころの弱さから来るしがらみから、
比較的自由だ。
彼らを見習うところは本当にたくさんある。
思い出したので、今日のテーマとは関係ないが、
一つエピソードをご紹介して終わりにする。
またまた、ハルコの見えてしまう話。
ゆりあの友達の写真の展示を鎌倉まで見に行ったとき、
ゆりあと一緒に行ったのだが、商店街でグルグルの形の昔懐かしい飴があった。
ペロペロ飴と僕らは呼んでたけど、大きな丸い飴。
それを見て、僕が冗談で「ゆりあが大好きな飴じゃん」と言って、
みんなで笑っていた。
土曜日の教室でハルコがゆりあの絵を描いている時、
その飴を極めて自然に描いて、「ゆりあちゃん好きそうな飴」と言った。
僕とゆりあは一瞬、目を見合わせた。
こんなことが本当によくある。
不思議ではあるのだけど、自然にそうだろうなあと、
繋がりを感じてしまう。