2012年5月26日土曜日

誕生日

もういいかげん、こういうことも書きたくないんだけど、
今日、ポストを見たら、今年もいくつかの団体から、
展覧会やイベントのお知らせが入っていた。
相変わらす、ひどい内容だ。
どの団体も「障害理解」「社会参加」とうたっている。
中には良い作品もあるのに本当に勿体ない。
はっきり言わせてもらうが、障害理解や社会参加の為に、作品を見る人は居ない。
いたとしたら、逆に誤解を助長させるだけだ。
ここまでは言いたくないが、企画しているあなた方の認識が、
障害理解や社会参加を妨げていることを自覚すべきだ。
作者達をバカにするのもほどほどにしてもらいたい。

さて、個人的なことですが5月24日は僕の誕生日でした。
何をする訳でもなく、いつもと同じように静かにすごした。
今はゆうたと居れれば、何をしていても幸せ。
夜、久しぶりにバックハウスのベートーベンピアノソナタ全集を聴いた。
やっぱり素晴らしい。
音楽の話は書かないと言っているので、ここまでにしておくけど、
これは何度聴いても感動する。
色んな演奏家が居るが、僕にとってはバックハウスこそが一番。
音楽に向かう姿勢は、生き方として見習いたい。
自分もいつかは、あんな風に仕事をしたい。

35になった。これからの10年をどう生きるか、考えたい。
前にパズルのことを書いたけど、経験して来た全てのことが、
パズルのように重なって一つの絵になる光景がみえた。
最近のことだ。

ここが節目になってくることは確かな気がする。
ゆうたが産まれたことが一番大きいが、他にも新たな環境づくりを考えたり、
これから大きく変化していくだろう。
でも、一番の目標は変わらない。
制作の場をどれだけ深めていけるかだ。
本当の僕の仕事はそこにしかない。
僕の仕事は、講演をする事でも、取材を受けることでも、
企画や仕掛けをつくることでもない。
今は必要な時期でもあるので、すべきことはしていくが、
本当の仕事は制作の場で一人一人と向き合うこと、そこにつきる。
これだけでも、一生かけても到達出来ない場所がある。

ともあれ、ここまで生きてこれて親に感謝しなくちゃ。
ゆうたが居てくれて、親の想いが分かる。
子供が可愛くない親など居ないだろう。

僕の生まれ育った環境と十代前半までの人生は平坦なものではなかった。
貧しくもあり、母子家庭でもあり、その他、様々な複雑な要素があった。
お陰で強く育った。
みんなからはいつも、なんでそんなに強いのと聞かれる。
ここぞという、勝負のかかった場面での勘の強さは財産となった。

東京のアトリエでダウン症の人達と向き合って10年だが、
最初に障害を持つ人の魂と出会ったのは16のころ。
今年で19年が過ぎようとしている。もうすぐ、20年だ。

前にも書いたが、本当の生き方や本当の人間の姿を探していた時期に、
僕は彼らを知った。この出会いは幸福なものだった。

僕は彼らのこころとずっと向き合って来た。
こころの奥にあって、まだ外には現れていないすぐれた資質が見えた時は、
全部見せて、全部だしていいからという気持ちで、
どうすれば一人一人が自分の前で裸になってくれるのか追求して来た。
こころを開く一番のキーは共感と共有にあるとすぐに気がついた。
相手と一緒になってこころの奥に潜っていく。
この作業は本当に面白い。
今でも続けている。
見方は確かに変わってきた。
かつては、共感一つとっても、相手が鳥肌たてば、自分もそうなる位だった。
あるいは、自閉症の人で世界が繋がりでは見えていない人と居るとき、
景色のすべてが点のようになって、それぞれのパーツだけが、
クローズアップして見えていた。
文字道理、本当に同じように見えたり、感じられたりする。
そうすると、確実に本人達には良い影響がある。
今はこんな風な共感は使わない。
僕は自分の居る場所から離れずに、一人一人を見る。
こころの動きは見えているが、僕はそこまでは入らない。
これでも同じ結果は得られる。

関わり方で人は変わる。
性質が変わる訳ではなく、外に表している姿が変わる。
だから無限の宇宙を抱えているのに、誰からも見えていないという事がある。

例えば、僕が昔居たところに、統合失調症の人が居るが、
彼は普段おとなしくしているけど、僕と会うと突然歌いだす。
その歌は他の人は聴いたことがないと言う。
5年も経ってからまた会うと、また急に歌いだす。
その5年間、彼は歌っていない。
5年間、あの歌はどこへ行っていたのだろう。

僕はこれまでたくさんの人を見て来たが、
彼らが持っている無限の可能性が、表す場面もなく、誰も気がつかない、
という状況は切ない。

外を歩いていても、ときどき、この人黙ってるけど内側には、
と思ってしまう事がある。

関わり方によっては、色んなものを出してくれる、
見せてくれる、教えてくれる。
これが人間のこころの神秘だ。

こういう可能性をずっと追求して来たが、
僕は誰からも教わったことはない。
尊敬出来る人達とは出会って来たが、
実際の関わりに必要なことは、すべて自分で学んできた。
実際に向き合って来た一人一人が教えてくれたとも言える。

ほとんど、一匹狼に近い状態だったが、
思ってもみないことに、教えて下さいと言ってくる人も多くなった。

自分達の現場で悩まれている方達、
相手のこころが動かない、制作の指導をしている人では、
なかなか描いてくれない、等様々だ。

残念ながら、自分達の現場で起きている問題は、
その現場でしか解決出来ない。
人から学ぶことも大切だが、学ぶのはまず、自分の現場の問題を解決してからだ。

勿論、僕は出し惜しみはしないので、結構教えるし、状況が許せば自分の場も見せる。
何も隠さないし、秘密もない。
良く、盗まれるといって、自分の仕事を見せない人が居るが、
それはケチ臭い発想だと思う。
良いものは、どんどん盗んでもらって、世の中が良くなればいい。

でも、まあ企業秘密が無いわけではない。
というか少しはある。
それは使った人が失敗しないように、使える人にしか教えないと言うことだ。
失敗すると危険でもあるから。
さらに言うと、自分にすら禁じている秘技もある。
秘技と言うとうさん臭いだろうか。
まあ、これは言っても使える人はそうはいないから、
暗示的に言うと、強い意志の力を使うことで、流れを変える。
これは滅多に使ってはならない。
何故なら自然な流れを壊すからだし、
自分にも相手にもふかがかかるからだ。
急を要する時、もうその人と会うことができない時、
そういうやむをえない時にのみ使う。
実は僕も数度だけは使った事がある。
何故使ったのかは言えないのだが、
人生には正しさだけでは乗り切れない場面もあるということだ。

このふかがかかる方法はもう一つあって、
こちらは意志の力を直接使うよりは安全だ。
それは流れを一旦、止めてしまうというものだ。
あるいは、相手の良い力を一度遮ってしまう。
そうすると、一旦止めたことでエネルギーはより強くなる。
強くなった瞬間に解放する。
意志の力よりは安全だけど、これも自然な流れをいじっているので、
危険度は高い。
実際には使わない方が良いだろう。

では何故、言ったかというと、
こういうことがあるということを頭に入れておくと、
自然な流れを自覚的に感じとれるかもしれないからだ。

こういう、こちら側の話ではなく、
一人一人のことでも、言ってはいけない話はたくさんある。
というか、僕のような生き方をしていると、
死ぬまで言ってはいけないことが、こころの中に大量にしまわれている。
大変そうだけど、面白そうでしょう。

それはさておき、これからの10年、
ダウンズタウンを大きく進めていくことは勿論、
制作の場での自分の役割にはさらに、磨きをかけていかなければならない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。