昨日、東京も教室日だったが、よし子も三重でアトリエをしていたそうだ。
肇さんと敬子さんが少し体調をくずしているみたいだ。
来客続きで疲れも出たのか、熱をだしているという。
それで、よし子が三重のアトリエをみた。
悠太を背負いながらやっていたという。
大変だっただろうが、良い教室だったに違いない。
今の彼女にしか出来ない「場」というものがあると思う。
彼女の人間としての変化が場にあらわれる。
制作の場とは人生と切り離せないものだ。
しばらく、今後の取り組みについて書いて来たが、
今日はまた、内面的な話をしてみたい。
なぜ、よし子の三重での教室が良い形になったと言いきれるのか。
ずっと、彼女を見て来たから、子供を産み、もう一つの段階に入って、
それが深みを創らないはずはないと思う。
そういう人生のステップを、全身で自分のものにして、
誰かに分け与えようとしてきた場面を何度も見ているからだ。
普段はこんな話は滅多にしないので、
今日は佐藤よし子という人のことを書く。
僕にとってパートナーとしての彼女のことではなく、
あくまで制作の場における佐藤よし子という人のことを。
日常生活での彼女は普通の女性だ。
寂しがりやで、ちょっと子供っぽくて、家と料理が好きで、
家族のことや人のことを考えすぎる。
あまり変化が好きではなく、落着いた静かな時間を好む。
刺激や娯楽をほとんど求めない。
そういう感じの普通の女性と言える。
仕事での彼女はかなりストイックなところがある。
かなり厳しい。妥協しない。
真面目すぎる部分もある。
僕が最もこの人は貴重な存在だなと感じるのは、制作の場においての彼女。
場を創り、守る存在としての彼女。
そして、一人一人とのこころの共有の深さ。
ここが他の誰にも真似の出来ない、彼女ならではの能力と言える。
はじめて彼女と出会ったのは、もう16、7年も前のこと。
彼女はまだ17、8才だったはずだ。
当時、僕は共働学舎というところで、様々な障害を持つ人達と暮らしていた。
一年に40名もの研修生がやってきた。
将来、保育士や福祉士になる人達が研修に来て、一緒に寝泊まりしながら、
学んで行く。特に保育士になる子たちは2週間の間、ずっと一緒に暮らす事になる。
たくさんの人達がその場に入って、障害を持った人達のこと、
一緒に生活しながらどう関わるかを学ぶ。
僕は障害を持つメンバー達のことを知り尽くしていたから、
研修生、実習生の人達の見方や接し方に違和感を感じていた。
最初のうちは、ただそれって違うよという態度だったけど、
関わりも長くなってくると責任感も出て来て、
じゃあこの人達に伝えれば、
外での環境ももっと良くなるはずだと考えるようになった。
(今、思うと彼ら彼女らより僕の方が年下だったのだけど)
2週間あれば、だいたい最後の3日くらいで凄く良くなる人が多かった。
でも、伝えることは難しいことでもある。
例えば障害を持っている人達に、身体的な介助をしてあげたり、
何かを教えてあげることは、少し勉強すれば誰にでも出来る。
でも、彼らの世界に入って行って、一つになって行くことは、
なかなか難しい。
実は僕自身はそんなに難しさを感じたことはなかったのだけど、
多くの人達を見ていて、それを感じるようになった。
理想的な関係を創れる人は100人に1人、居るかいないかだった。
しかも、時間も結構かかる。
研修生や実習生が帰って、来客もいない時期に、農業の学校からの、
専攻実習というはじめての形で、佐藤よし子という人がやって来た。
僕はまた、2週間くらいしたらちょっと変わるかなという感じで、
まだ会ったことも無い人のことを考えていた。
ご飯を食べにみんなの集まる部屋に入ったとき、
はじめて彼女を見て、えっなんだ、と思った。
もう既にメンバー達のこころの深くに入って、景色に溶け込んだ彼女がいた。
それが出来るというのが、
普通の人が想像するより遥かに難しいということを知っていた。
その頃から彼女の現場での力は変わらない。
普通の人が想像するより難しいと書いたが、
制作の場での意識の使い方にしてもそうだ。
これは見ていて分からないことだとおもうが、
想像以上に体力と気力を要する。
はじめてやってみるとヘトヘトになる。
一度、場に入ってしまえば、一瞬たりとも気をそらすことは出来ない。
よし子の場合はこういうことをする為に生まれて来たのでは、
と感じるような存在だ。
多分、僕とはまたぜんぜん違う部分がある。
そこに対してはいつも尊敬する気持ちがある。
彼女はかなり個性的な場を創る。
僕はどちらかと言うと、もっと相手に合わせた感じだ。
(勿論、彼女が相手に合わせない訳ではない)
だから、僕みたいな在り方には、今のゆりあの方が近いかもしれない。
ゆりあがきっちり継承していってくれるな、と感じている。
よし子のような存在は他にはいないし、誰も真似出来ないだろう。
それは本当に貴重なことだ。
だから、子供を産んでさらに深まった彼女の現場が見てみたい。