昨日は2、4週日曜日クラス。ベテランの多いクラスだ。
午前中あらためて、ゆうきちゃんの制作に圧倒された。
ゆうきちゃんの作品はいつも凄い。
それから、りょうちゃんがいつものようにユーモアで場を盛り上げながら、
描いている途中、作品がグンと深くなる瞬間があった。
僕はかなり離れた場所にいたのだが、意識だけはこの瞬間は逃してはならない、と
強い注意力を注ぐ。その瞬間、作品を見ていたりょうちゃんが、
僕の方に視線をうつしてニッコリ笑う。言葉はない。僕は頷く。
そこで世界は共有される。あとは数分で良い作品が仕上がる。
面白いなあと思うと同時に怖くもある。
あの瞬間を僕が逃していたらどうなっていたか。
多分、分かる人いないな、と察知してそのまま画面をうめて出来上がりだっただろう。
そういう部分で、制作の場ではスタッフもいつも試されている。
午後のクラスはやっぱりこの人達の友情は素敵だなと思う。
このメンバーにしてはじめて出来る場がある。
お互いを知り尽くしているからこその、言葉にしない部分での交流。
制作に関しては、残念ながら一番良い、のびのび描けていた頃は過ぎてしまった。
それぞれが色んなことを経験し乗り越えて来た。
お互いがその事を分かり合っている。
確かに一番輝いていた制作の時期は過ぎたとはいえ、
時に今でしか出来ないような深みが出ることもある。
色々あったからこそ描ける絵というのもある。
何よりもこの関係性が財産だ。
このクラスほど、場は彼ら自身が創ると実感させてくれるクラスはない。
僕自身も本当にリラックスして、自然に進められる。
彼らがお互いを活かし合っている姿が、本当に有難い。
1、3週の日曜日午後クラスは逆に、制作の密度が素晴らしい。
こちらにも俊敏な感覚が要求される。
流れについていく集中力が必要だ。
このクラスもかけがえがない。
特にてる君の制作に向かう透明感はずばぬけている。
こちらも良い意味での緊張感がある。
と言っても柔らかくやさしい空気感が共存しているのだが。
感覚、感性の部分では僕はてる君と居ることで、
かなり鍛えられて来たような気がする。
ある意味で作家とスタッフは一心同体だ。
魂や感覚の領域では、本当に一つになる瞬間がある。
作家とスタッフの共有している世界とは、
仲のいい友達や、家族との一体感とは少し違っている。
日常的な次元から一歩深いところに入った部分だ。
だから、作家たちも友達や家族に望むことと、僕らに求めることは違ってくる。
例えば、これは別の話だから深くは書かないが、
ダウン症の人も統合失調症になってしまうケースがある。
この問題はいつか別の機会に考えたいが、
そうなると、今居る世界や自分の環境から逃れる為に、
彼らはこころの中に別の世界を作る。
本当は私は神様だとか、動物だとか、何かに狙われているとか。
そういう場合は、あきらかに健康を害してしまっているので見ればすぐに分かる。
それとは別に精神的に健康で問題がないのに、
「実は私は地球人じゃないんだ」とか
「今日来たお母さんとお父さんは、本当の親じゃないんだよ。実はね‥‥」
というような話を始める人の場合、また違う意味がある。
それは内面的な真実を語っているといえる。
つまり、ここから入る制作の空間、こころの深い場所は、
友達や家族と過ごす時に出している世界とは違う、
もっと素のこころを描くことで表すよ、というような意味だ。
その様にストーリーを作って、内面を整理する人は多い。
ここで、こんなに自由にしたら、外でわがままになるのでは、と
心配される保護者の方もいらっしゃるが、そういう意味では大丈夫。
違いが分かっているからこそ、どこででも出来ないという自覚がある。
もし、どんな場所でも内面のすべてを出してくれるなら、
制作の場でもスタッフに仕事はない。でも、そうはなっていない。
彼らは言葉より気配で察知している。
こんな事もあった。
ある女の子でずっとアトリエに来ている人だが、
外でフリースクールみたいな場所に通っている。
そこの先生のことが好きで、もう恋愛のような感情にもなっている。
いつもその○○さんの話を楽しそうにしている。
彼女がある日、真剣に制作している姿がかっこ良かったので写真にとっていたら、
「佐久間さん、今の私をとってね。○○さんに見せたいから。○○さんは私のこういう
ところ、しらないからね」と言った。
彼らはその人が自分のどの部分を見ているのか知っている。
どの関係が正しいという話では勿論ない。
様々な関係が必要だ。家族との関係、友達との関係。
先生との関係。
そういう様々な関係の中に、制作に向かう彼らのこころを見るという、
スタッフとの関係の大切さもあげられると思う。