昨日、よし子と悠太が帰って来た。
次の三重行きまでに話し合っておくべきことは多い。
それにしても、悠太が可愛くて朝も離れがたい。
アトリエに来る時間がギリギリになってしまう。
今度は3週間だったのに、またまた大変化に驚く。
今の時期は早いなあ。猛スピードで成長しているのか。
下の歯が2本ほどはえてきた。
「悠太、おかえり」と言うと、全身で笑って「ウウー」と返してくれる。
様々な状況で難しいところもあるけど、
一緒に過ごす時間をなによりも大切にしたい。
今の関わりは今にしか出来ない。
これは制作の場でも同じだ。
今、この瞬間に関わっていくことが重要だ。
あとで何を思おうと、ほとんど無意味だ。
後悔も反省も、良かったという満足感も、あまり意味がない。
何が出来るのか。何を残してあげられるのか。
結局、相手に残るものとは、愛情だけだと思う。
良い記憶を刻むこと。それが、良い人間に育つ元になる。
教育の専門家達の考えは分からない。
はっきり言って先生と呼ばれる人達、あるいは親でもそうだけど、
本当に子供の幸せを思っているのだろうか。
将来、役に立つと言う、訳の分からない理由で、
デジタルな知識と技術を詰め込む。
人のこころはどんどん壊れていく。
本当のことを言うと、役に立つ、お金が稼げるなんてことは、
人間としてレベルの低いことだ。
そんなことはほうっておいても、必要に応じてやらざるを得ない。
人間としてのもとを創らないで、ゲームを教えてどうなるのか。
コンピューターゲームだけがゲームではない。
今、ITと称して大人達が進めている仕事自体がゲームのようなものだし、
記憶テストのような受験だってゲームみたいだ。
ゲーム脳が生きやすい社会を作っておいて、ゲームを批判している。
学校の先生達も良い人間が増えて来ている。
志の高い方がたくさんいらっしゃる。
昨日は絵画クラスに通う男の子の学校に呼ばれて、お話しして来た。
校長先生がとても良い方で、学校で彼をどう見ていくべきか、
真剣に考え、彼のことを知ろうと努力されている。
こういう場面では僕も真剣に伝えたいと思う。
そうすることが、彼らを取り巻く環境を良くしていくことに繋がる。
前にも書いたが、お医者さん達も真剣に取り組もうとされている方が増えている。
専門家たちが変わり始めている。
保護者の方達も意識を変えていって良い時期だ。
他人事として言っている訳ではない。
僕自身が悠太の父親として思うことだ。
子供達にどんな風になって欲しいだろうか。
役に立つからやっておこうというのは、実はずるい考えだ。
少なくとも、自分の役に立つのではなく、人の役に立つを考えるべきだ。
役にたつという言葉で、損得勘定を植付けている。
役にたつかたたないかで教育を考えてはいけない。
正しいか、正しくないか、本当か嘘か。
本物かにせまのか。それが基準であるべきはずだ。
しかも、だいたい大人が役立つと考えたことが、
将来なんの役にもたたなかったりする。
そもそも、世間が良しとする教育の通りにすべてを進めて、
良い人間が育っていくなら、世の中とっくに良い人であふれかえっているはずだ。
事実はむしろ逆だろう。
子供の事を考える前に、自分の人生観を問い直してみる必要がある。
ではどうすべきか。
今というこの時に、愛情を傾け、一緒に吸収していくこと。
親と子でも、家族でも、先生でも友達でも、
最小単位での良い関係が築かれている人は、全ての基本に信頼が生まれる。
それが人間のもとだ。
もとさえ創ればそれでいい。でももとを創るのが一番難しい。
僕は悠太がどんなことをしても、何を選択してもいいと思っている。
彼の人生は彼が創る。
ただ、幸せを感じて欲しい。生まれて来て良かったと思える人生をおくって欲しい。
苦労して欲しくないとも思わない。
苦労した方がいいだろう。その苦労が自分のためにするものでなく、
他人の為や何か大きなものの為にする苦労であって欲しい。
どんな風にどんなリズムで育ってもかまわない。
大切なのは本当の経験をかさねること。それだけだろう。
まあただ、悠太が女性に対しては凄く愛嬌をふりまくので、
父親に似てしまうかと心配な時もある。
男女関係は失敗もするだろうけど、あんまり激しい生き方はしないでくれ、
とやっぱり思うかも。
昨日も校長先生や先生方とお話ししたが、
彼らのことを知ろうとして下さる方が増えて来ている。
伝えることが大切だ。
私達は1人では何も出来ない。
僕が一生かけても、関われる人の数は限られている。
だから、自分の無力さを自覚して、たくさんの人に伝えて、
みんなで協力することだ。
昨日もゆりあからのメールがなければ、うっかり忘れるところだった。
朝、ゆりあから「佐久間さん、今日学校だよ」と連絡が来た。
僕が忘れていることを察知したようだ。
こういう何気ないことに、人は力づけられる。
アトリエでの僕の動きをちゃんと見ていないと、分からないことだ。
前後にどんな仕事があったか、どんな調子か、良く見ているから、
あっ今日忘れてそうだなとなる訳だ。
そうすると、僕は守られてる、助けられている、と感じる。
制作の場で必要なのはそういう観察力と注意力だ。
何気ないふるまいで、作家たちがこの人、自分のことを見ている、
注意を払っていると感じ、安心して制作できる。