2012年12月8日土曜日

現実の向こう側

昨日の地震、みなさん大丈夫だったでしょうか。
途中から悠太を寝かせていたので、その後の情報を知らない。
東北の方々は無事だろうか。

一年ちょっとでこれは、やっぱり何か周期に入ってしまったのではないだろうか。

ところで、別に書くほどのことではないけど、
先日、ある方と話していた時、その方が
「佐久間さんは放射能を気にしているから、水道の水は飲まないでしょう?」
と言われた。
別にどうというわけではないのだが、
そうかあ、普通はそんなふうに考えるんだなと、ちょっと思った訳だ。
放射能の問題は気にするとかしないという話ではないが、それはおいておく。
ねんのため、言うけどああやって書いているのは責任としてであって、
自分が助かりたいからではない。
僕自身は残念ながら水道の水くらいは飲む。

避難出来る人はしたほうが良いとも書いているが、
自分が逃げようと思っている訳ではない。

恐怖や不安から書いている訳ではない。
そもそも僕には自分だけ助かれば良いという考えが理解出来ない。
きれいごとではなく、理解の範疇を超えている。
自分だけ生き残ったところで楽しいだろうか。
更には別に長生きもしたくはない。

まあ、自分に利益がないことは言わないと言う人が多いのだろう。
だから、何かを言えば、自分の欲求を口にしていると思われる。

ということで、別にその様な考え方を非難しているわけではない。
僕には、もっともっと大切な事がある。
それは幸せなことだ。

よく考えることだけど、
こんな大変な問題が山積みの世の中で、
絵とか、絵を描くと言うことにどんな意味があるのだろう。
勿論、意味がなければいけない訳ではないが。

1人の人間にとって、美的体験というものは計り知れない意味を持つと思う。
それはその人の生き方さえも変えてしまう。
美しいものにふれただけで、絶望が癒され、生きようとする力が湧く事がある。

確かに芸術は(あんまり芸術とか言いたくないが)、現実には存在していないものだ。
その作品がどれだけ美しくても、それはこの現実とは異なる。

でも、ここ何回か書いて来たことだけど、
私達が現実と思い込んでいるものは、はたして現実なのか。
それは、見ない様に聞かないように、他の要素を排除して作り上げられた、
人間の意識だけにある世界なのかも知れない。
つまりは現実こそが幻想かも知れない。
この現実の向こう側にもっと本当のものがあるのではないか、
という直感を与えてくれるのが、美的な体験だ。

現実の向こう側にあるものこそが現実だ。

絵を見ているとき、映画を見ているとき、
音楽を聴いているとき、きわめて稀に、途轍もない体験をすることがある。
自分を遠いところまで連れて行ってくれる。
そこにある懐かしさ。

夢の中にいるような感覚について何度も書いてきた。
僕にとっては深く仕事に集中しているとき、
つまり、場に深く入っているとき、この感覚が強くなっている。
そして、それは日に日に強くなっていく。
今では確固とした現実があったことが、遠い過去になりつつある。
夢の中にいる感覚の方が現実だと言える。

10代、20代の時はよく旅をした。
旅、と言うより放浪に近い。
いつも場所を変えて、どこまでも行った。
遠いところまで行くと、自分がどこにいるのか分からなくなってくる。
自分はどこにいるのだろう、何をしているのだろう。
自分とはなんだろう、という感覚になってくる。
ここはどこだ、と考えている。
本当はこの感覚の方が、世界の近くにいると思う。
人は普段、慣れによって自分の周りの世界を分かったものとしている。
でも、本当は何も分かってはいない。
だから見知らぬ土地にいるときの方が現実を捉えている。

僕は学校では勉強しなかったが、
10代の頃からたくさんの人や環境に出会って、教えられてきた。
先生たちにはひたすら感謝だ。
その人達の体系で世界を見た。
その人達の目を通して、様々な経験を深めてきた。
自分では見えなかった世界が見える様になった。
知らない世界を知ることが出来た。
本当に楽しくて夢中になっていた。
そして、先生たちから離れて生きて来た時間は、教わったことによって生かされていた。

でも、今ではそれらの影響はきれいサッパリ自分から消えている。
たった1人でこの場にいて、夢の中にいるような感覚がしている。

人は過去を思い出すとき、夢の中での出来事の様に感じる。
時々、現在が過去のように感じられるときもある。

映画「サクリファイス」の映像が頭をよぎる。
どこまでも続く道。そらの水色。

     「ゆうちゃん。今日のお外は何色?」
ゆうすけ君「白っぽい青。水色系。」

映像がくり返し見える。
広い芝生。小さな人。
時間が止まったような静けさ。

僕達は毎日、深く深く場に入る。
そこには人のこころがある。
こころが見える。こころの音が聞こえる。気配が感じられる。
見え、聞こえ、感じられる動きと一つになる。

どこまでも、どこまでも深く。
夢よりも深く。現実の向こう側まで。
ここでこそ、僕達は生きている。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。