2012年12月2日日曜日

偏見

土、日曜日の絵画クラスでは普段は音楽をかけない様にしている。
視覚にしろ聴覚にしろ、イメージを方向づける部分があるからだ。
出来るだけ、白紙の状態でありたいと思う。
まあ、でも時と場合でどんな条件も良い方にも悪い方にも向かいえる。
だから、状況を見て、用意していく。
必ずこうするという決まりはない。

昨日の午後のクラスでは本当に小さい音だったけど、
ジャズをかけていた。マイルスデイビス。
一番最初に登場したえいた君は、この雰囲気にピッタリ。
彼は聴覚障害もあるので、この音はほとんど聞こえていないはずなのだけど、
音楽とかさなる様に描いていく。
描くリズムに普遍性があるので、どんなものとも合っている様に見えるのか。
もしかしたら、音は振動でもあるので、皮膚で感じられるのかも知れない。

春頃だっただろうか。
ダウン症のお子様を連れて、アトリエに見学にいらした方がいる。
その方から久しぶりにメールをいただいた。
僕がちょっと前に書いた「出生前診断」を読んでいただいたようだ。
感謝の言葉がそえてあった。
ああ書いておいて良かったな、と思う。

実はあそこでは、あえて知らない人や一般の人に向けて書いたので、
現在、ダウン症の子供を持つ保護者の方達を応援する内容にまでは出来なかった。
実際に産み、育てておられる方々には物足りない内容であろうと思いつつ。
なぜ、そうしたかと言うと、おいおい書いていくが、
やっぱりこの問題には冷静な客観的な視点が必要だと思ったからだ。

こうして、喜んで下さる保護者の方がいたことは嬉しい。

本当はもっと保護者の方達の力になりたいと思っている。
一番彼らを守っているのは保護者の方達なのだから。
彼らを産み、育てるということを命をかけて、おこなって下さったからこそ、
この世に貴重な宝物のような存在がいるのだ。
僕達はその存在の本質を多くの人に知ってもらおうとしている。

それでも、保護者の方達と意見が分かれる時がある。
本意ではないがいたしかたない。
すべてはダウン症の人たちの存在を正しく、知ってもらうためだ。
ここで知ってもらうではなく、正しく知ってもらうと書いた。
ただ、知られれば良いということではない。

例えば、出生前診断の衝撃が強かったのだろうが、
様々な場所で色々とイベントが行われている。
多くの団体は保護者の方達や、身近な関係者が中心となってすすめられている。
だから、真剣に必死になってダウン症の人たちを守ろうとか、
知って下さいとアピールしている。

あらかじめ書くがこの流れを否定するつもりは毛頭ない。
ただ、一言だけ言いたい事がある。
なるべく、外部の、客観的な視点を持つ人を立てて企画した方が良い。

今、社会でもダウン症の人たちに関心が集まっている。
この時期が大切なことだけは確かだ。
知ってもらうにも良い機会なはずだ。
だからこそ、冷静な判断が必要だと思う。
知ってもらいたいがばかりに、身内で団結して、
中の人にしか通じない活動をしてしまうと、
外で見ている人達は、ああやってるなあという感じで、本当の関心はよせてこない。
勿論、障害の問題や権利の問題があるので、
あからさまに悪く言う人もいないだろうし、
良く思わなくても言葉では良いと言う人もいるだろう。

知ってもらいたい、と必死になればなるほど、
関係者だけの世界になって、外の人はその必死さ故に近づけなくなっていく。

外の人達が見て、楽しそう、面白そう、というくらいが良い。
初めから、みんな平等だから一緒になりましょう、
と強引に手をつないだら、嫌じゃなくても反射的に手を引っ込める人は多い。

僕達だってアトリエで彼らと一体になって過ごしている時と、
外部へ発信している時ではスタイルを全く変えている。
特に作品や、見せるという部分に関しては厳しい視点が必要だ。
ここはどうしても距離の近さは弱点となってしまう。

大切なのは彼らの存在を、知ってみたいと多くの人に感じてもらうことだ。
そのための方法はしっかりとしたものでなければならない。
あえて言えば、戦略的でなければならないかも知れない。
少なくとも、そう言う観点も考察する必要がある。

もう一つだけ、近さ故に生まれている発想を取り上げる。
「ダウン症」という呼び名を問題視している方々もいるようだ。
マイナスイメージがあるので変えるべきだ、ということだが、
これもよく考えてみて欲しい。
マイナスイメージは呼び方から来るものだろうか。
まずは「ダウン症」という名前がマイナスイメージにならないような、
むしろダウン症という人達は素敵というようなプラスのイメージを創る。
そちらが先ではないだろうか。
ダウン症という呼び方はプラスでもマイナスでもない。
ただ単にダウンと言う発見した人の名前だ。
これがマイナスイメージになっているのは、それに伴う偏見であり、
まず偏見を正して、しっかり知ってもらう方が大切だ。
名前を変えたところで、その名前がまたマイナスイメージになっては意味がない。

かつて、統合失調症のことは精神分裂病と呼ばれていた。
確かに余りにひどい呼び方だし、ここまでいくと変えた方が良いかも知れない。
ただ、呼び方が変わったことによって、
はたして統合失調症の人達に対しての偏見や差別はなくなっただろうか。

まさか、呼び名自体が必要ないから無くそうとまでは思わないだろう。
もし、みんな平等だから障害の名前を呼ばないみたいな事になったら、
それこそ、偏見や差別は内在化されて、
呼ばないけど敬遠される、みたいな事になっていくだろう。

そもそも呼び方にこだわる人達は、
例えば自分の中に偏見があるのではないだろうか。
僕自身は、ダウン症とか自閉症のと誰かが言ったとしても、
そこに何のマイナスイメージもない。
ダウン症や自閉症の名前が変わっても、そういった人達がいなくなる訳ではない。
この人はダウン症、自閉症ではありません、とまで言いたいだろうか。
それよりはダウン症で良いし、自閉症で良いという社会になった方が良い。
何度も書いたが違いのないことが平等なのではない。
違いが許されることが平等だ。

何事もあまりヒステリックにならない方が良い。
魅力のある人達なのだから、必死になったり媚びたりしないで、
一緒に出来る様々な可能性を、楽しさを伝えていけば良い。

僕は自分に偏見がないとアピールする人と、よくこんな会話をする。
「ダウン症の人たちって別にぜんぜん普通ですよね。
私達となんの違いもありませんね。」
「いや、違いはあります。私達はあんな絵は描けないし、
彼らは私達の知らないことを知っています。」

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。