今日は比較的暖かい。
来週、出来れば火曜日くらいには発送作業が終われば、
いよいよ引っ越し準備だ。
それにしても、何度引越したか分からない。
よし子とゆうたと離ればなれになるのは、やっぱり寂しいが、
次の一歩を踏み出すためには自分にも何かを課して行く必要もある。
何をするにしても、そこに人生をかける人、
命をかけて取り組む人とそうでない人がいる。
そうでない人を決して批判はしない。ただ、違う姿勢を見せて行きたい。
誰に対して見せるのかというと、次に何かをしようとする人達だし、
僕の場合はゆうたにも自分の生き方を見せなければと思っている。
この前、ゆうたが咳き込んでいて、2度ほどもどしたのだけど、
僕は自分がビチョビチョになって起きて、
またやってしまったかあと濡れた布団を見ている夢を見た。
この感触は何だろうと思っていて、昨日のゆうたか、と思い出した。
最近はゆうたと同化することが多い。
でも、僕は昔から誰かと同化したり、
誰かの感覚や思考を自分の内部で感じたり、そんな経験をしてきた。
境界線というものがある。
境界線はいったい誰がいつ付けたものなのか。
この答えは簡単だ。
日々、瞬間ごとに私達自身が自分で付けているだけだ。
だから、境界など本当はない。
ここで書いて来たような、夢と現実から始まり、
善と悪、男と女、日常と非日常、内側と外側、自分と他人、
といったようなすべての境界は本当は存在していない。
突き詰めれば生と死すらも。
存在しているとすれば、それは心の中でだけ存在している。
これは別に哲学ではない。経験で分かることだ。
特にこころに深く入る経験によって。
こころの表面ではそういった区分や境界だらけで、
それによって自分の世界を作っているが、深く入って行くと全く違う景色が見える。
そこでは何もかもが渾然一体とかしていて、一つという言葉も存在しない。
ここで上げた例の中で言うなら、
自分と他人というものがあるが、これなんか一番あやしい。
これは僕が特にここと関わる生き方をしているのでそう感じるのだろうが。
自分の中に他人が入って来たり、他の人のこころへ潜ってみたり、
そんなことをしているうちはいいが、
いずれ経験が深くなると、それらが同時に感じられる様になる。
そうすると、どこまでが他人でどこまでが自分なのか分からない。
他人と言っても、1人や2人でなく、多人数になってきたり、
さらにはもっと個を超えた何ものかが入って来たりする。
何もことさら話を大きくしている訳ではない。
単純に隣にいる人の気持ちを感じようということだけでも、
それを深くやってみたら、こんなことになって行くのだ。
数日前のプレのクラスで、
事務仕事を手伝いに来てくれていた赤嶺ちゃんが、
終わった後にたまごサンドを発見した。
古くはなっていない。誰が持って来たのだろう。
これ、誰のかなあ、と聞いても誰も知らない。
「食べてもいいかなあ」
「あまっているんだし、食べてもいいよ。」
そのとき、赤嶺ちゃんが面白いことを言った。
「このたまごサンド、謎だなあ。謎だから食べて、謎を消そうかな」
言葉の使い方は相変らずさすがだなあ。
そう、僕もそんなふうに謎をたくさん食べて来た。
謎があっても気にしないが、謎があっては困る人や、
謎で悩んでいる人がいた場合、僕はすぐにその謎を食べた。
だから、僕のこころの中は謎だらけになって、僕にとっても謎だ。
謎だけではない。悲しみも苦しみも、孤独も怒りも、
みんなまるまる食べてきた。
強い胃袋があって、ちゃんとトイレに流せたから良かったけど。
消化能力が弱い人はやってはいけない。
もう一つ。境界線が消えると言うか、無いところまで行ってもいいけど、
生きているのだからちゃんと境界線は引くこと。
境界線が無いと言うことを知る経験は素晴らしいけど、
そこから出られなくなってはいけない。
境界線を永久に消し去ってはいけないのだ。
僕自身も昔はかなりむちゃをしたので、
命綱をはずしてしまったり、出口を塞いでしまったり、
自分を置き忘れて来てしまったりして、危ないところだったこともある。
でも、こうして生きて帰って来ているのは、勝負を忘れたことがないからだ。
僕は安易な平和主義を良しとはしない。
きれいごとでは生きてはいけない。
生きることは、様々なしがらみを受け入れることだ。
勝負などというものは子供じみている。
それでも、こういう愚かさを引き受けることが必要だ。
確かに良いものを知ったら、すべてを良いものにしたくなるかも知れない。
でも、大切なのはバランスだ。
悪いものを滅ぼそうとしてはならない。
悪いもの醜いもの、そんなものもこの世の中には少しは必要だ。
どんなに良いものもそれだけになってしまうことは怖い事だ。
正しくないものと戦い続けよう。
でも、正しくないものを消滅させることは出来ないし、してはならない。
境界線は必要な分だけひくことだ。