2012年12月15日土曜日

回帰

普段のアトリエでの作家たちの集中は凄い。
多分、こんなに真剣になっている彼らを見る場面もないだろう。
そして、彼らは時に遠くを見るような眼差しでじっとしている。
ぼーっとしているだけの様にも見えるが、目つきが違う。
視線の力について、また暴力性についても何度か書いた。
目は、その人がどんなこころの状態にあるのか、示している。
さらに相手に自分のこころの状態を示す時にも有効だ。
何故、自分のこころの状態を示す必要があるのか、というと、
勿論、迷ったり、困ったりしている時に、安心感を持ってもらうためだ。
だから安心してもらうためには、自分が安心したこころの状態になければならない。

話はそれたが、目を見ているとその人のこころが分かる。
彼らのあの遠くを見る眼差しは、ただ放心しているのとは違う。
あきらかに物ではない何かを見つめているのだ。

今日はその話をしてみたいと思う。
でも、急ぐことはない。

いつもはアトリエまで自転車で通っているのだけど、今日は久しぶりに徒歩。
日の出は遅かった。
寒くなってゆうたの眠りが浅いのか、不安なのか、授乳が一時間おき。
よし子は寝不足で大変だ。
昨日は僕もあんまり寝ていない。
急に成長が早くなってきて、お腹がすいているのではないか、という気がしている。
いっぱい食べれば、寝られると思うのだけど、
アレルギーで食べるものが限られている。
同じものは飽きてしまってなかなか食べてくれない。
栄養が心配になるので、食事を考えていかなければ。

寝不足で朝日を見ると、かつてある障害を持つ人と、
寝ずに付き合って夜が空けたときの情景を思い出す。
身体がどこかへ行ってしまって、意識だけがその場にあるような、
不思議な感覚で夜明けの太陽を見ていた。

それにしても寒い。
ユニクロで暖パンというのを買った。
今年はこれでいこうかな。
いつも途中で邪魔になってやめてしまっていたが、腹巻きも最近はしている。
以前、ほぼ日の方にいただいたのが、やっぱり一番いい。

ようやく、年末の印刷物も纏まりつつある。
来週中には発送出来るだろう。
それにしても年末は特に時間がすぐに過ぎてしまう。

この季節になると、古今停志ん嘲を思い出す。
志ん朝は、僕が生きているうちに見ることが出来て、
一番幸運を感じる落語家だ。
志ん朝と談志だけは、何度も聞きに行った。
テープで聞いた志ん生、文楽、圓生、とか、落語は大好きだけど、
その話はやめておこう。
冬に思い出す落語は、「富久」で志ん嘲の亡くなった後に出た音源だ。
今から9年ほど前だろうか、阿佐ヶ谷で一人暮らしをしていた時に、
よく聞いていた。
今は手元にない。
冒頭の「ウー寒い。ウー寒い。」から始まって冬の寒風の雰囲気が出ている。
あのシリーズの録音が志ん嘲のベストかと言うと疑問だけど。
でも、くり返しあの透明感のある声が聞けるのは嬉しかった。
下手な音楽を聴くより、志ん嘲の落語の方がはるかに音楽的だ。
あのリズム、あの間こそ、自分に刻み付けたい。
談志も志ん嘲もジャズが好きだったけど、
やっぱり志ん嘲の方がジャズを感じさせる。
どこにも滞るところがなく、どこまでも自在だ。
上手さすら感じさせない。爽やかな息づかい。

CDや本は、僕の場合、定期的に手放してしまうので、
記憶の中にだけあるものが多い。
ここに書いているものも幾つかはすでに手元にないので、
確認出来ない。記憶に間違いがあるかも知れない。
なにせ、今は映画も見ないし、本もあんまり読まない。
音楽だってそんなに聴かない。
ゆうたが産まれてからは、電車に乗ることもほとんどない。
アトリエと家のまわりだけが僕の毎日だ。
それで、実は今の方が新しいことがいっぱいある。
ゆうたを見ていると発見することが多い。

最初に書いた遠いところを見つめる目というのも、
昨日、ゆうたがずっとそんな感じだった。
僕はゆうたと同じものが見たいと思ってずっと彼の目の先を見ていた。
無論、物質ではない。どこか遠く。でも確実に存在する何か。
こころの奥深く。
一緒に見ていると、本当に遠いところまで見えてくる。
僕達はどこから来たのか、じっと見ている。
それはアトリエでのこころの動かし方とかなり近いものになっている。

これを仮に発生学者三木成夫の言葉で、
「過去へと向かう遠い眼差し」と呼んでみる。
三木成夫はさらにこの過去へ向かう眼差しに対して、
「今のここに、かつての彼方を見る」視点と書いている。

ここで書いて来た「夢の中にいるような感覚」や、
「今が過去のように感じられる」や、あれやこれやも、
みんなこの過去へ向かう遠い眼差し、ということなのだろう。

これも三木成夫が書いていたと思うが、
鮭が命がけでやって来た場所へ帰ろうとするように、
人間も回帰する本能が植付けられているはずだ。
もっと言えば、この宇宙そのものが回帰する存在なのかも知れない。
世界がやっていたところへ、世界は回帰する。

ここで作家たちが制作する行為も、回帰していく行為だし、
この場は私達が本来あるべき姿に戻る場所だと言える。

そういう意味で、ここで何か新しいものを創ろうとか、
新しい知識や技術を身につけようとか、
持ってないものを手に入れようとか、出来ないことが出来る様になるとか、
そんなことではないと思うのだ。
むしろ、そんな事は毎日毎日、無理やりしているのだから、
一旦、みんな捨ててしまって、元に戻ろうよ、ということをしているのだと思う。
そして、回帰したとき、僕達は再び活力を得る。
しばらくすると、また色んなものが溜まってくるので、
また捨てて、回帰する。生きるとはそのくり返しだ。

素直に捨てられる人、裸になれる人は疲れない。
生命力が新しく湧き出てくる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。