2012年12月1日土曜日

すっかり寒くなった。
12月になってしまった。なってしまったということもないか。
この一ヶ月でやっておかなければならない事がたくさんある。

また、とりとめもなく書かせていただきます。

しばらく前から書き方を変えている。
これまでもそうだったのだけど、これまで以上に構成しないで、
思いつくままに書いてみている。
制作の場から普段見えている光景に少し近づけてみたいと思って。

ブログを始めた時にいくつか自分の中でルールを決めていた。
私的な話しは書かない。趣味のことは書かない。
音楽、絵画、映画、本、食物のことは書かない。
という様に。
このルールもこの辺で終わりにしたい。

結局、僕が言う「場」というものは人生のすべてがつまっているのだから、
どんなことも無関係にはなりえない。
流れの中で関係してくるものについてはふれる方が自然だ。

早速、個人的な話で申し訳ないが、結婚記念日だった。
一時間ちょっとだけ、悠太をあずけてよし子と2人で久しぶりに食事。
結婚して7年。出会ってからは15年くらいだろうか。
本当に色んなことがあった。

悠太が日に日に可愛さを増していく。
一緒にいるだけで幸せになれる。
悠太さえ元気にしてくれたら、もう何もいらない。

数日前に夜、腹痛。5回もトイレに行った。
下痢。すべてが出てしまうと、身体が軽くなってすっかり調子が良い。
たまにはこういうのも必要なのか。

今日は霊と言うか、見えないものの事を書いてみたい。
こんなテーマで上手くいくはずはないのだけど。
数日前に、お風呂に入っていて、ちょっとウトウトしてしまった。
耳元で女の人の声がする。小さな声でささやいている。
よし子かなと思って、「どうした」と見てみても誰もいない。
よし子と悠太は寝ている。
これは確かに霊というヤツかと思う。

まあ錯覚とか気のせいということもありうるが、
どうもそうではなさそうだ。
こういうことは、時々は誰しも経験している。
だから、その手の話しは多いのだろう。
でも、それが何なのかと言ったら、誰も説明出来ない。
すぐに、信じるか、信じないか、という話になる。
宗教のことでもそうだけど、なぜみんな、信じるか信じないかという基準になるのか。
信じるか信じないかというのは実は部分的な問題でしかないかも知れない。
僕が言いたいのは、そういうものをどう捉えるかだ。

ところで、僕はその霊的なことだけど、
ああいうのはぜんぜん怖くはない。
怖いものがないなんて、強がってみせる訳ではない。
怖いものはたくさんある。
でも、見えないものとか、分からないものをことさらに怖いと感じることはない。
霊を怖いと感じるのは、ほとんどは見えないからだ。

例えば、それらしい話しで、この世に思いを残してとか、
見捨てられた恨みを持ったままとか、
色々とそういう怨念のようなことが話題になる。
そんな未熟なこころを持った存在を僕は怖いとは思わない。
むしろ、終わったことにいつまでも未練を残すなと説教してやりたい。
時々、人を怖がらせたり、
ちょっかいをかけているだけの甘ったれた存在を恐れる必要はない。

こうやって書くと、
まるで霊みたいなものをあると言っているようだが、そうではない。
見えないものやエネルギーみたいなものは、みんなそうだけど、
一言で言ったら、あると言えばある、ないと言えばない。
問題はどんな姿勢で生きるか、だ。

ここではいつも、こころを問題にしてきたが、
考えてみれば、というか考えなくても、こころは見えるものではない。
そうすると、霊とあんまりかわらない。
それに、確かにこころは恐ろしいものでもある。
人は見えないものを恐れるが、それはこころを恐れているのだ。

霊の話ではこんなのもよく聞く。
どこかを歩いていると、猫が死んでいる。
それを見て、「ああ、可哀想に」そう思った瞬間に取り付かれる。
あるいは無念のうちに殺された人の話を聞いていて、
「可哀想に」と思う。それで取り付かれてしまうという。
これは、かなり上手く表現された話だと思う。
これをこころという領域の話として見てみると、
まったく本当だ。僕自身、そうやって取り付かれるというか、
溺れていってしまった人達をたくさんみている。

こころに触れる時、共感が一番大切なのだけど、
相手と一体化しすぎたり、距離がなくなっていくのは危険だ。
この「可哀想」という思いは、生きている存在にとっても危ういものだ。
勿論、可哀想と思っても良いのだけど、その感情に溺れてはいけない。

いつでも強い意志の力を持っていなければならない。

こころの話も、実は霊とか気とか、見えないものの話に近くなってくる。

創造性というものがあるが、いったいどこから来るのか。
こころから来ることは間違いない。
が、いったいこころのどんな場所から来るのか。
とにかく、こころの中にその様な場所があって、
芸術家はそこへ入るために様々な技術を駆使したり、
自分なりの方法を暗中模索する。
ダウン症の人たちは何故かその場所にスッと入って行ける。

あえて、そのコツを考えてみると、こころをやわらかくしておくことだ。

私達は普段、「現実」とはこうだと考えて、
それ以外の要素は見ない様に、聴こえないように、感じない様に、
強固なバリアーをして生きている。
時々、不意に何かが見えてしまう、聞こえてしまう。
それを何とかなかったことにしようと日常へ帰る。
見えること、聞こえること、感じることを恐れている。
逆に見えないものが見える人が居たり、
聞こえないものが聞こえる人がいると、
恐れて否定するか、凄い能力と言って崇めるか、どちらかになってしまう。
霊媒師や占い師がいっぱいいるのもそこに原因がある。
見えたり、聞こえたり、普段分からないことが分かる人が居ても、
そんなのは実はぜんぜん、凄くもなければ、偉くもない。
ただ単に私達が普段、「現実」にないと決めつけていることを、
見ないように、聞かないように努力しているだけのことだ。

以前に少し書いたかもしれないが、
ハルコは「画面」と呼ぶこころの空間を持っている。
「画面から見えたよ」と言ってさまざまな情景を話す。
画面のようなものはハルコにはずっと昔からあったのだけど、
それに「画面」と名付けたのは3、4年前くらいだろうか。
「昨日、○○君がタバコ吸ってたの画面から見えたよ。」と言ったり。
その子は普段タバコは吸わない。
でも、話を聞くとしばらく前に友達と久しぶりにタバコを吸ったと言う。
「○○さんのお家にキラキラ光るもの吊るしてあるね」と言う。
本当にその様なものがあるらしい。
こんなことはいくらでもある。

ハルコの画面は想像も夢も現実も、ずべてがかさなっている。
そして、その中には予知とか、透視と呼ばれるものに近いようなものもある。
一つ言えるのは画面の中では発想が自由に動くと言うことだ。
彼女が得意とする連想もそこから来る。

ハルコを知っている僕にとって、それはまったく不思議なことではない。
画面はつまりさっき書いた創造性が生まれるこころの空間だ。

ここで大事なのはこころの内部の空間が現実に対応しているということだ。
人のこころの中まで見えたり、見ていない現実を見たり、
知らないはずのことを知っていたり、それらが実際の現実とかさなっている。

実はこころの深い部分で経験することは、
内側とか外側と言う境界がなくなっている。

制作においてこころに入って行って、
自然の法則を発見出来るのはそう言うことなのだ。

こころの中で見たものが現実に見え、
現実で起きていることが、こころの中で自分の一部として感じられる。
そういう経験が増えていくと、
夢と現実とか、こころと世界とかが一つのものとして見えてくる。
そうすると、見えないものが見える。聞こえないことが聞こえる。
感じられないものが感じられる。

こんな所まで来てしまったが、時間になってしまった。
また、続きを書くか書かないか分からないが、そんなこともあるという話だ。
ただ、最後に一つだけ強調したいのは、
先の方で書いた意志の力というものの大切さだ。
感覚が敏感になった人達は溺れやすい。
しっかりと感情をコントロールして、客観的に見る目を持ち続けなければ、
こころという大海で溺れ死んでしまう。
見えないものは、見えないからと言って恐れる必要はないが、
いつでもそこにいる自己を見失った時、危険が迫っている。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。