今日は雨。
そんなに寒くはない。
気候条件としてはいがいと良い日だ。
年末にどうしても忙しくなるので、来年こそは余裕を持って、
と毎年、思うが気がつくとこの時期に来てしまっている。
ハルコが「サクマさん、きのうザズきいたよ」
と言ってマネをする。
いつもは「ぷっぷっくぷー。ぷぷぷっぷー」
という感じでこれはデーブスだと言う。マイルスのこと。
今度は「ぷっぷぷ、ぷっぷぷ、ぷぷぷぷぷー」と早い。
「今日のは早いね」
「パーカース」
「あ、チャーリーパーカー?」
「そうそうそう」
そんな訳で僕の頭の中ではチャーリーパーカーがなっている。
ハルコが話していると、そこに行ってみたくなったり、
食べてみたくなったり、その音楽を聴きたくなったりする。
「昨日、美空ひばりさん誕生日だったよ」
と言われて、急に聴きたくなったり。
最近は「石川さゆり」の話が多い。
演歌は大嫌いなのに(都はるみは別格)、石川さゆりはいいなあ、と思う。
歌の上手さは当り前だけど、良い意味でドラマ的な構成力が凄い。
演歌だけじゃなく、上手い人は絶えず凄みを出し続けているが、
石川さゆりは違う、ここぞというところまでは封印しておいて、
完璧なタイミングで絶頂を見せる。それがまた、ピッタリ決まる。
このドラマ性は一般的な演歌にはないものだ。
良くも悪くも、現代的な感性が強いと思う。
ハルコのお陰で、僕の頭ではチャーリーパーカーや石川さゆりが、
なり続けている。
こういうことはよくあって、てる君と話しているとパズルがしたくなる。
「僕もパズルやろうかなあ」
「だめー。しごとしなちゃい」
夢の中にいるような感覚が大事だと以前に書いた。
なぜかというと、これも最近書いたことだけど、
私達は普段、本当に多くのことを見えないように、
聞こえない様にして生きているので、現実がひどく平面的になっている。
夢の中にいるような感覚とは、こころをほぐして、やわらかくした時の状態だ。
そうすると、これまで気がつかなかったことが見えたり感じたりする。
世界自体が違うものに思えてくる。
そして、これが創造性の秘密でもある。
ハルコは制作中に時々「ああ夢かあ」とつぶやく。
アキも「寝てたよ」と言う。
2人ともしっかり起きて作品を創っていたのだけど。
タルコフスキーの映画、「サクリファイス」は何度かくり返し見た。
最後の作品だけに枯れている。
映像美は変わらないが、色彩的の鮮やかさはやや薄れ、ぼやっと靄がかかっている。
あれだけ、鮮やかで色に敏感だった映画監督が、この時は墨絵に近くなっている。
人類の終末と自己犠牲いうテーマもあって、
こんな時代にもう一度ゆっくり見てみたい作品でもある。
でも、それより、あれはすべて夢の中のことを描いているのだと受け止めてみる。
だからといって、あの夢が覚めた後に現実なるものがある訳ではない。
ひたすらすべてが夢だというようなことではないか。
そういえば、あの映画の中でもすでに夢が描かれていたはずだ。
夢から覚める場面があったはずだ。あれはどう受け止めようか。
夢の中で夢から覚めたけれど、それもまた夢なのだ。
ただ、夢のような感覚が重要なのであって、
現実感のない、あるいは現実逃避はだめだ。
薄い現実を生きてはならない。
今の時代はすべてがバーチャルなものになって、とついいいたくなる。
でも、その言葉自体が紋切り型になっていて、
言う方も聞く方もなんの実感もなくなってしまった。
もともとバーチャルの世界で生まれている人達に、
バーチャルがとかリアリティと言ってもピンとくるはずがない。
しかも言葉だけでは色んなことを知っていて、
分かった気になっている人もいる。
僕らの世代やそれより下の人達は、
本当は今の世界なんてニセモノだという自覚が必要だ。
本当の現実はもっと深い。もっと大きい。
何かもっと途轍もないものだ。
僕自身もこんなに世界というものが、生命というものが、
強烈で計り知れないものなのだ、という実感を持つことができたのは、
10代で信州の山で暮らす経験があったからだ。
強烈に生きている人達と出会えたからだ。
でも、そんな日々も今では夢の中の出来事のように感じられる。
何が現実で何が夢なのだろうか。