2012年12月4日火曜日

夢と現実

今日は雨。
そんなに寒くはない。
気候条件としてはいがいと良い日だ。

年末にどうしても忙しくなるので、来年こそは余裕を持って、
と毎年、思うが気がつくとこの時期に来てしまっている。

ハルコが「サクマさん、きのうザズきいたよ」
と言ってマネをする。
いつもは「ぷっぷっくぷー。ぷぷぷっぷー」
という感じでこれはデーブスだと言う。マイルスのこと。
今度は「ぷっぷぷ、ぷっぷぷ、ぷぷぷぷぷー」と早い。
「今日のは早いね」
「パーカース」
「あ、チャーリーパーカー?」
「そうそうそう」

そんな訳で僕の頭の中ではチャーリーパーカーがなっている。

ハルコが話していると、そこに行ってみたくなったり、
食べてみたくなったり、その音楽を聴きたくなったりする。
「昨日、美空ひばりさん誕生日だったよ」
と言われて、急に聴きたくなったり。
最近は「石川さゆり」の話が多い。
演歌は大嫌いなのに(都はるみは別格)、石川さゆりはいいなあ、と思う。
歌の上手さは当り前だけど、良い意味でドラマ的な構成力が凄い。
演歌だけじゃなく、上手い人は絶えず凄みを出し続けているが、
石川さゆりは違う、ここぞというところまでは封印しておいて、
完璧なタイミングで絶頂を見せる。それがまた、ピッタリ決まる。
このドラマ性は一般的な演歌にはないものだ。
良くも悪くも、現代的な感性が強いと思う。

ハルコのお陰で、僕の頭ではチャーリーパーカーや石川さゆりが、
なり続けている。

こういうことはよくあって、てる君と話しているとパズルがしたくなる。
「僕もパズルやろうかなあ」
「だめー。しごとしなちゃい」

夢の中にいるような感覚が大事だと以前に書いた。
なぜかというと、これも最近書いたことだけど、
私達は普段、本当に多くのことを見えないように、
聞こえない様にして生きているので、現実がひどく平面的になっている。
夢の中にいるような感覚とは、こころをほぐして、やわらかくした時の状態だ。
そうすると、これまで気がつかなかったことが見えたり感じたりする。
世界自体が違うものに思えてくる。
そして、これが創造性の秘密でもある。

ハルコは制作中に時々「ああ夢かあ」とつぶやく。
アキも「寝てたよ」と言う。
2人ともしっかり起きて作品を創っていたのだけど。

タルコフスキーの映画、「サクリファイス」は何度かくり返し見た。
最後の作品だけに枯れている。
映像美は変わらないが、色彩的の鮮やかさはやや薄れ、ぼやっと靄がかかっている。
あれだけ、鮮やかで色に敏感だった映画監督が、この時は墨絵に近くなっている。
人類の終末と自己犠牲いうテーマもあって、
こんな時代にもう一度ゆっくり見てみたい作品でもある。
でも、それより、あれはすべて夢の中のことを描いているのだと受け止めてみる。
だからといって、あの夢が覚めた後に現実なるものがある訳ではない。
ひたすらすべてが夢だというようなことではないか。
そういえば、あの映画の中でもすでに夢が描かれていたはずだ。
夢から覚める場面があったはずだ。あれはどう受け止めようか。
夢の中で夢から覚めたけれど、それもまた夢なのだ。

ただ、夢のような感覚が重要なのであって、
現実感のない、あるいは現実逃避はだめだ。
薄い現実を生きてはならない。
今の時代はすべてがバーチャルなものになって、とついいいたくなる。
でも、その言葉自体が紋切り型になっていて、
言う方も聞く方もなんの実感もなくなってしまった。
もともとバーチャルの世界で生まれている人達に、
バーチャルがとかリアリティと言ってもピンとくるはずがない。
しかも言葉だけでは色んなことを知っていて、
分かった気になっている人もいる。
僕らの世代やそれより下の人達は、
本当は今の世界なんてニセモノだという自覚が必要だ。
本当の現実はもっと深い。もっと大きい。
何かもっと途轍もないものだ。

僕自身もこんなに世界というものが、生命というものが、
強烈で計り知れないものなのだ、という実感を持つことができたのは、
10代で信州の山で暮らす経験があったからだ。
強烈に生きている人達と出会えたからだ。

でも、そんな日々も今では夢の中の出来事のように感じられる。
何が現実で何が夢なのだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。