2012年2月4日土曜日

関わる人達

今日も寒いですね。
朝からいっぱいメールがきていて、どこから手をつけようかと、
思いつつもブログもそろそろ書かなきゃということで。

それにしても、仕事も増えたしたくさんの人に会う。
でも、こうして何かしら関心を寄せて下さる方が増えているのは、
有難いかぎりだ。

最近、受ける質問の中には私達スタッフの認識や、
もっと言えば僕個人、佐久間という人間のこと、
アトリエの背景に関するものが多くなってきた。
僕自身はアトリエもスタッフも、あくまで脇役、表に出て行く存在ではない、
と感じている。
もっと、ダウン症の人たちの作品と、こころの在り方に注目していただきたいと。

でも、ある意味で彼らの作品の力が伝わって来たからこそ、
それを見守るアトリエやスタッフの視点にも関心が抱かれるのかも知れない。
制作の場からスタッフとして、経験して来たことや、
身につけて来たことが、ダウン症の人たちを知ることの、
あるいは彼らと近くで接することの、何らかのとっかかりになるなら、
いくらでもお伝えしたいとは思う。

そんなわけで、これまでは誰にでも通じる普遍的で、
客観的な部分しかお話ししなかったが、主観的、あるいは個人的な、
経験や認識のことも、いがいと聞いてみたいと感じる方がいるということが、
最近、分かって来た。

例えば、実際のところスタッフは何を見て、何をしているのか。
作家の創造性にすべてを委ねると言ってしまえば、
それまでだが私達にはやるべきことは色々ある。
なぜ、この道具を使うのか?
なぜ、このタイミングなのか?
私達にとって当り前のことが、説明を要することであったりする。
そんなことは、多くの人達にはあまり関係も関心もないことだと思って来た。
でも、どうしてなの?どんな意味があるの?という質問に答えて行くと、
へー、面白い、と興味を示して下さる方も多い。

僕はおおまかに2つに分けてお話しすることにした。
ダウン症の人たちの世界。感性とそこから見える可能性。
という彼ら側のことと、
ダウン症の人たちの潜在的な力を、どのように引き出して行くのかと言う、
スタッフや関わる側の問題。
勿論、この2つは交わる地点がある。
そこが一番大切なのかもしれない。

確かに、関わる側の問題も重要だ。
彼らが本当に穏やかに暮らして行くためには、
関わる人や環境を整えて行かなければならない。
どこかだけが、あるいは誰かだけが認識を持っていれば良いというものではない。

アトリエでも学生達を多く見て来た。
彼らは社会へ出て、様々な環境の中で生きていく。
そういう人達が少しでも、ダウン症の人たちの世界を知って、
大切に思って、社会の中で繋がりをつくっていけたらと。

僕は、アトリエのスタッフも勿論育てていかなければと思うが、
それ以上に色々な人達が、彼らと出会い、それぞれのアプローチで、
彼らと繋がって行って欲しいと思っている。

可能性や希望を語って来たが、そのための必要条件がある。
みんなで認識していきたい。
ダウン症の人たちは、これまで伝えて来た様な無限の可能性を持っている。
でも、それに気づき、大切にしていこうという人が居なければ、
その可能性は消えて行く。
彼らは無理は出来ない。鍛えれば強くなるとか、
頑張れば乗り越えられるという誤った努力を強いるのはやめにしよう。
彼らには彼らのリズムがあることを知ろう。
それから、彼らは一生を通じて、一定の愛情を必要とする。
大人になったのだから、自立して甘えてはいけないとか、
こういう一般的な常識も一度疑ってみよう。
まずは、一生を通じて愛情を必要とする存在であるという事実を、
冷静に受け入れよう。
これは決してマイナスでも、出来ないことでもない。
むしろ、きわめて人間らしい在り方ともいえる。
問題なのは、人と人がバラバラに切り離されて生きなければならない、
今の社会の中で、どうやって彼らと繋がり続けられるかということだ。

そんなところから、今後しばらく、関わる側の問題や、
スタッフとしての個人的経験についても書いていこうと思う。
やや経験的な話、深い話を書くことになるかも知れない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。