2012年2月8日水曜日

あのとき見たもの

ちょっとお知らせです。
2月18日(土)午後2時から開かれる
「弟12回 日本ダウン症療育研究会」(近畿大学医学部講堂)で、
佐久間がお話しさせていただきます。
場所は大阪狭山市大野東377−2です。
僕は特別講演という枠で4時40分〜5時40分までお話します。
テーマは「制作現場から見たダウン症の人たちの世界」となっております。
(日本ダウン症療育研究会事務局 072(368)1566)
関西圏の方でお時間のある方は是非。

実はどんなお話をするか、まだ決めていません。
当日の他の方のお話や、お越し下さっている方達のご興味を感じてから、
決めていこうかなと思っています。

さて、前回まで、
制作の場でのスタッフとしてのやや経験的な話をしてきた。
こういった内容は今回で終わりにして、またもう少し一般的な話に戻していきたい。
この経験だけはちょっと書いておこうと思ったので書こう。

早いもので東日本大震災(3•11)から、一月で一年になる。
この問題はまだまだ続いているし、今後どうなって行くのかは私達次第だ。
ここでは外的な問題や政治にはふれない。
あの時、僕自身は個人的な深い体験をした。
その時、見たもの、感じたこと、経験した世界は、
前回まで書いて来た人間のこころに潜るという行為の一つの結果だ。

制作の場でこころの奥に入って行くこと、
それを深めていくと、様々な経験をするし、たくさんのことが見えて来る。
お互いのこころが繋がる場所とは、お互いのこころが分かれる前の場所。
それを見に行く。無意識を共有するともいえる。
こころは層になっているという話をしたが、
浅い層から、少しづつ深く入って行くと、
表面の意識にある混乱や騒がしさとは別のものが見えて来る。
少し奥に進むと調和やバランス感覚がみつかる。
それを見ていくと人間と言う存在に信頼感覚が生まれる。
一皮剥けば、みんな同じと良く言うが、だいたいは悪い意味で使われる。
善人に見えても、一皮剥けばみんな悪いことを考えているとか。
それは確かに事実だ。本当のことだ。そして、この一皮剥いた状態を知るべきだ。
でも、僕だったら、さらにもう一皮剥くし、それからさらに一皮。
そうすると、みんな同じという同じが、
みんな良い存在で価値があるという事になって来る。

実際に制作に向き合っている時、そんな経験を重ねているのだ。
浅い意識やこころはとらわれていても、
荒れていても、少しづつ、奥へ分け入っていく。
そうすると混沌から調和へ向かっていく。
それで終わりではなく、この行為はくり返される。
バランスは絶えず崩れるし、壊れる。私達が死んでいくのと同じだ。
永遠のバランスがある訳ではなく、
科学者が言っている「動的平衡」というのに近いだろう。
こころも物質も同じ仕組みで出来ていると思う。
だから、一度、調和を見出したから終わりではなく、
混沌から調和へという行為をくり返すことが生きることだろう。
まさしく制作の場では、そんなくり返しをおこなっている。

そういう経験をしているわけだ。
一度、そんな深い経験をすると、
場を離れて、生活していたり、街を歩いているときでも、
その風景は戻って来る。
こころが変われば世界が変わると、僕は感じている。
今、僕に見えている風景、世界は、ダウン症の人たちをはじめ、
沢山の人達が見せてくれているものだ。
もし、そういう人達、存在がいなければ、
僕にはこんな世界が見えることは無かっただろう。
見せてくれて、教えてくれてありがとうといつも思う。

3•11の時、そんな体験があった。
天災と人災は違う。天災はどんなに辛いものでも悪いものではない。
今回は原発による人災をもっと考えなければならない。
でも、そこはもう何度も書いて来た。
今はもっと内面的な話をしよう。
天災であれ、人災であれ、あの日、とてつもなく大きなものが壊れた。
破壊され、崩れ去った。
壊れたものは2度と戻っては来ない。
このことから目を背けてはならない。
悲観すべきではないが、事実を無視してはいけない。
あの日以来、すべては変わってしまった。

あの日、僕は新宿に画材を買いに行っていた。
大きな揺れがあった時、直感した。大変なことが起きていると。
何か違う現実に入って行った感覚がある。
世界が突然変わった。外では太陽の光が輝き、途中明るい中で雨が降った。
人々は立ち尽くし、何も反応出来なくなっていた。
僕は新宿御苑に向かって歩いていた。
ビルがグーオーンと歪む。
不思議な静けさが漂っていた。
新宿御苑の前に立った瞬間に、警備員が来て非常口が開いた。
まるで自動ドアのように、僕はそのまま入って、静まるのを待った。
その日は夜、歩いて自宅まで帰った。
帰ってからも不思議な感覚は続いていた。
自分の感情が動かない。というより自分がいなくなってしまった。
なんらの恐怖心も、混乱もおきない。
どこにも、自分がいない。ただ、見ていた。
この事実、この現実そのものとなって、ただ、その場で見ていた。
テレビから離れなかった。
自分自身が地震や津波、おきている現実そのものになってしまったようだ。
なにも感じないで、ただひたすら現実と共にある。
そんな状態が一日中続いた。
すべては破壊され、すべては変わった。そして破壊は続いていた。
僕はこの世界そのものだった。
朝、目の前に突如、調和とバランスがあった。
世界は美しかった。こころと身体は再び調和へ向かって動こうとしていた。
それはあまりにも自然に動き出した。
調和に向かうのが僕達の本能であり、
この世界の性質なのだと深く実感したのだ。
しかも、このこころの内面の動きと、外の動きが完全に一致していた。
すべては自然だった。僕と言う個人のいないところで、
僕という存在を乗り物として、普遍的な原理が、
混沌から調和へという運動を見せてくれたのだ。

この経験は僕に、アトリエでの日々の実践が、
人間にとって何を意味するのか、どこへ向かっているのかを教えてくれた。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。