2012年2月6日月曜日

場を創る側の視点

さて、少し前回の続きの様なお話を。

それにしても、スタッフとしてゆりあが順調に育って来てホッとしている。
いよいよ、卒業。
アトリエにも本格的に来てもらう。
卒業制作、上手くいった?と聞くと、
「うん。やれることは全部やったし。でも、もう終わった感じ。次は違うようにしたい」
と、どうどうとしている。
これくらいの意識で何かに挑めるなら、教室も任せられるようになるだろう。

ゆりあが今の姿勢を貫いていけば、
いずれは僕なんかよりよっぽど良い仕事をするだろう。
勿論、教室での動きは僕から見てまだまだだ。
僕ならここは見逃さないという場面は多々ある。
でも、大事なのは謙虚さと真剣さだ。
それがなければ何が出来てもこの現場ではダメだ。
ゆりあにはそれがある。一番大切なものが。
現時点ですでに場が普通に流れていれば、
任せきれるだけの仕事は出来る。
これから必要になって来るのは、
流れが止まった時や、乱れた流れが来たとき、
どうやって自然な流れに戻していけるかだ。
ずっと見ていると、良い時も悪い時も、
ありとあらゆる場面に遭遇するだろう。
そこで絶えず、狼狽えず、焦らず、安心した空気をもち続けられるか。
人間として強くなることだと思う。

アトリエにはたくさんの学生が来ているから、
その中からスタッフになる人はいないの?という質問を受ける時がある。
正直、それは難しい。
そういう目的で来る人を見ていくのなら可能かも知れない。
この場から、あるいはダウン症の人たちから、
何かを学びたいと思ったり、彼らと居ると楽しいと感じてくれたり、
そういう人達と、「場を創る」という人は要求される能力が違っている。
どちらが良いと言うことではなく、種類が違う。
ここから何かを吸収して成長していく人達は、
貴重な存在だ。だからなるべく受け入れる。
来る条件は「学ぼうとする謙虚さ」だ。
そこが歪んでいなければ、来ていいよと言うことになる。
「場を創る」人となると、もっと別のものも必要だ。
スタッフは選ばれなければならない。

それと場に入ると、よし子や僕との彼らの関係が最初に見えるので、
いいなあと思うと、よし子や僕のマネをしてしまう人も多い。
でもマネはやめた方がいい。
間違った方向に努力してしまう事になる。
大事なのは彼らを見ることだ。
よし子と僕とでは見方も関係の作り方も違う。
人は自分の在り方を自分で見つけなければならない。

場を創る側となると、自分の姿勢を身につけなければならない。
ある意味でいうと強引さ無しで、相手のこころを動かせなければならない。
これは結構、難しいことだ。
例えば、生徒が入って来て最初に「寒いね」と言う。
こちらはどんなふうにもかえすことが出来る。
「本当に寒いね」と共感するのか、「えっ寒くないよ」とずらしてから、
別の場所に行って出会い直すことで、共感をより強く演出するのか、
「昨日もこんなだったっけ」と何気なく、その人の生活に入るのか、
「あっ、今すぐあたたかくなるよ」とエアコンの温度を上げて、
安心と別の場所への切り替えに意識を向けるのか、
これだけでもほとんど無限の選択肢があり、
しかもどこを選ぶのかでその後の流れが変わっていく。
こういう微細なこころの動きに付き合えなければ、
作品に向かう彼らの感性に共鳴し続けることができない。
スタッフが見つめただけでも、座る場所を変えただけでも、
立ち上がっただけでも作品は変化する。

日常生活でこんなことをしていては大変だ。
つまり、彼らと楽しく過ごしたり、生活の面で手助けしたり、
支え合って友情を築いたりすること、そういうことは、
どんな人でも可能だし、必要だ。
だから、それが楽しいことで私達にもプラスになるよということを、
ここへ来る人には感じてもらいたい。
そして色んな環境の中で彼らとの関係を続けてもらいたい。
それと上に書いた様な微細な制作の領域とは別だ。

ある意味でスタッフは友達でも家族でもない。
かといって指導者でもない。

スタッフを育てるということと、
現場から色んな経験をもらって成長していくということは別のことだ。
でも、両方の人が必要だ。
どちらも重要なことだ。

こんな話が面白いのか分からないが、
最近良く話題にあがることが多いので書く。
例えば、僕の場合、相手のこころにどこから入って行けばいいのか、
すぐに感じるし、見える。
隣に座った時に相手に強い母性を感じて、
自分の意識が子供のようになっていった事があった。
そこから彼女の制作はぐんと深くなった。
こんなことは考えては出来ない。
こころのどこに触るべきか、あるいは触れてはならないのか。
いわば、こころの形のようなものが見える。
彼らと初めて接する人を見る。
目の前に立つ。2人の距離と関係。2人が一緒に居るのを見ただけで、
いいとかダメと、その間合いが見えてしまう。
「あれダメだよね」と学生に話しても、みんな分からないようだ。
だから後で上手くいかなかったとなるのだが、
僕には最初の時点で、その間合いではこころが動かないとか、
そこから入ったら止まっちゃうよというのが見えてしまう。
普通に誰かと誰かが話していても、
あれ、そこ入口じゃないよとか、そこつついたら混乱するよというのが見える。
内側の動きが見えたり感じられたりするのは、
訓練した訳ではない。

だから、僕はスタッフやここから学びたいという人に、
僕の様な見え方になれとは言ったことがない。
別に見えなくてもいい関係は創れるし、良い場はつくれる。
なんで見えないの?とかなんで分からないの?とか
そんな事は思わないし、言わない。そんなのは自分のエゴでしかない。

個人的体験で言えば、この「間合いが見える」ということが出来る人は、
僕が出会った中ではよし子しかいない。
勿論、そんな事が出来なくても良い仕事をしている人はたくさん居た。

外面に現れたものをしっかり見ていけば、良い場が出来る。
その人を思い、必要なことをしていけばいい。

目つきを見るように言う時がある。
目を見れば、どんな状態にあるのか分かるので、時々確認するように。
でも、僕自身は相手の目は見ない。
見なくても分かる。

でも、それがいいと言うことではなく、ただそれだけのことだ。
人にはそれぞれの条件があるのだから、人のマネをしてもしかたない。
でも、世の中地位も権力もあって、お金もあって、
しかも才能や能力のある人がいっぱいいるし、
普通はそういう人のマネをしたいと思うのだが、
わけの分からない僕みたいな人間のマネをしてしまう
人達は本当に純粋で可愛くもある。

これから先の事を考える。
ゆりあが重要な人間になっていくだろう。
僕とよし子でも視点は違う。
ゆりあはさらにどんな見方をしていくのだろう。

いずれにしても、今後アトリエではゆりあの出番が増えてきます。
まだまだ至らないところはあるかと思いますが、
新しいスタッフを応援して、あたたかく見守って下さい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。