2012年2月7日火曜日

ちょっと深い話

三重県に居るよし子は風邪をひいたり、ゆうたの皮膚に細菌がついたりと、
色々ある中で、周りのみんなに助けられて生活出来ているようだ。
よし子も安心している様子だ。
有難いという気持ち以上に東京で何もしてあげられないのが、申し訳ない。
周りの人達に感謝。肇さん、敬子さん、文香ちゃんがいてくれて、
本当によかった。

そろそろ悠太に会いたいなあ、と思いつつ写真を眺めて仕事している。

さてさて、前回の続きの話で、
僕達スタッフの視点からもっと深い体験のレベルの話をしてみたいと、
思ってはいたのだが、その前に、
最近もまた相談を受ける事が多いので、
もう一段生活レベルのお話から始めたい。
もう、何度も書いて来ている事ではあるが、ダウン症の人たちにとって、
思春期頃(人によって時期はズレる)が一つの変わり目であることは確かだ。
この時期に気持ちが病んでしまうケースは、本当に多い。
お医者さんや専門家がもっと、この事を議論し必要な手助けをおこなう必要がある。
僕らはただ、絵を見て来た人間に過ぎない事をおことわりしつつ、
少し考えていきたい。
これはあえてくり返し書いているのだが、
周りで彼らを見守る人達が充分に自覚しておかなければならないのは、
ダウン症の人たちの場合、言葉や行為からだけ見ていても、
変化に気づきにくい場合が多いということだ。
無理をさせて、ストレスを溜めることが、
普通の人よりはるかに危険度が高いということなのだが、
実は無理させていることや、ストレスを感じている事に、
なかなか周りの人が気づけないという問題がある。
もう一つは無理のない環境で育ててあげようとしても、
今の社会の中で、それを実践するのはかなり難しい。
というより普通のご家族では不可能かも知れない。
もっとみんなで協力し合える社会なら良いのだが。
くり返しが多くなりすぎるのでこれ以上は書かない。
ただ、ご家族の方に一つだけお願いすると、
本人に「無理していない?ストレスたまっていない?」と
聞くのはやめていただきたい。そんな言葉で「無理してるから、もうやめたい」と
言えるくらいなら、最初からこんなことは問題にならない。
それから、言葉に出したり、行動に変化が起きだした時は、
本当はもうすでにかなり遅いのだということを、知っておかなければならない。
このあたりは一般の人達とは少しリズムが違うし、
他の障害の人達とも性質が違うことは認識されなければならない。

天真爛漫、元気いっぱいで自由に見える人ほど、
その様に振舞えなくなる環境にはもろいので気をつけなければならない。
絵にしたって、途切れることなく、なんの不安もない、
自由な世界にいる時こそ、こちらは気を遣う。
その次元は本当はとても繊細でもろいものだ。
大切に大切にあつかっていかなければならない。

制作の場にも最大の配慮がいる。良いものほど壊れやすい。

でも、答えはいつもシンプル。
難しくなることも多い。上手くいかないことも多いけど、
その度に愛情をかけ、あたたかく、大切に向き合っていくしかない。

さて、前回までの話からもう一歩踏み込んでみたい。
本当はこういう話は書くべきではないのかも知れない。
裏話、こぼれ話のたぐいかも知れない。
前回、僕にはある特殊な感覚があって「見える」とか「分かる」ということが、
自然におきるということを書いた。
あれだって、別に書かなくてもいいことではある。
テーマを掘り下げていくと、個人的な感覚や経験が関わって来るので、
そこにどうしても触れなければならなくなることもあるということだ。
言わなくていいというのは、
このてのことは、分かる人には分かる、感じる人には感じられると言うことで、
もし分からないという人には、どれだけ説明しても意味がない。

だから、まあいままでもそうだが、部分的にこういうテーマになったら、
ちょっとご興味のおありの方だけ、お付き合いいただければと思う。
別に関係ないなと思われたら、その部分はお読みにならなくて結構です。

制作の場で一人一人のこころに向き合っていると、
人間のこころは層になっていると感じる。
こころは一人一人違う形をしているが、
ここの層、もうちょっと奥の層、もっと深い層と進んでいくと、
それぞれの段階で同じ様な形があり、
全体の構造はひとつだ。
そういう段階を一つ一つ、手で触るように確認して進めていく。
この作業は本当に繊細な知覚の力を使うが、面白い。
何度か書いたが、共感とか、響き合うとか、あるいは相手と一つになる、
という様なことにしても、こころのどの層に向けたものなのかで、
様々な違いがある。
共感が起きているとき、こころのどの層に共感しているのか。
一つになっているとき、どの層と一つになっているのか。
もっと言えば、相手を理解するというとき、
相手のこころのどの段階の層を理解したのか。

僕自身は深いレベルの層に触れていくことがテーマになっているが、
べつに浅いレベルの層にも魅力もあり、可能性もあり、共感もおきる。
作家との一体感で良い場が生まれる。
それは、浅いレベルの層のでおきた一体感であっても何も問題はない。

だから浅い層を問題にする人と、深い層を問題とする人では、
ただ趣味や傾向が違うというだけかも知れない。
あるいは人生観が違うのか。

僕自身は深いレベルまで入って行くことがテーマだ。
なぜなら、もっと知りたいのかも知れないし、もっと奥まで行ってみたいからだろう。
例えば、絵に関してだけ言うなら、深いレベルまで下りていった方が、
面白い作品に仕上がっていくことは確かなようだ。

深い層を見ている場合、どうやってそこまで行くのか。
僕の場合、目の前に相手が来るまで、どの層まで行くかは決めていない。
でも、行けるところまでは行く。
表面の層に触れてジワジワ、まわりからほぐしていってから、
芯に入って行くのか、いきなりダイレクトに本質に入るのか、
相手の体調とこころの状態次第だ。
悩んだり迷ったりしている人が居たとして、
どのレベルの層によって、そこを癒していくのがいいのか。
浅いところだけの方がすんなりいく場合もあるし、
浅い層でおきた問題でも、一歩深いところから入れば、
浅いところにまったく触れなくてもすぐにバランスが戻ったり。

悩んでいる、苦しんでいる、その人といる。
その層が一段深いところへ下りる。
表面的な苦しさにも触れている。
そのうち自分から、もう少し深いところに動こうとする。
僕はすぐに反応して入口を大きくするために開く。
そうすると、そこから彼は深いところまで入って行く。
途中で怖くなって僕を振り返る。
「大丈夫。もっと進もう。いつでも戻れる」
僕はそんな態度を見せる。
もっと進むと彼から恐怖は消えて行く。
もっと進むと彼と僕は一つになる。もっと進むと一つになった一体感も消える。
もっと進むと、そこには彼も僕もいない。
自然と同じものがある。普遍や調和やバランスがある。
もっと進むとそれも消えて、でも何か得体の知れない大いなる感覚だけがある。

もうこうなると宗教みたいな話になって嫌なのでこの辺でやめておこう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。