2015年11月3日火曜日

成瀬巳喜男とチェリビダッケ

今日は一転、良い天気で暖かかった。

早くも三重での時間を思い出す。
悠太を連れて伊勢の病院へ何度か向かった時。
車で聴いていたアンバートンのささやくような歌声。
伊勢神宮の裏の深い森。
舞果を抱いていた感触。

場が何故大切なのかと言うと、
そこでは凝縮した形で人生や世界の本質に触れることが出来るからだ。
普段の僕達は物事の断片しか見ていないし、
見えているのは表層の部分だけだ。
本質と言うのはもっと奥にあって、
そこから見ることが出来れば認識は全く別のものとなる。

何度もその経験について書いて来たが、
制作の場では終わりから始める感覚がとても大切だ。
てる君とのあの特別な時間においてもそうだったが、
ある時、絶対的な安心感に包まれる。
全ては今進行しているのに、もう全てが終わっていて、
回想するように見つめている感覚。

何もかもがそこにあって、何もかもが完璧で、
動いているのに静止しているかのような時間。

チェリビダッケの音源を聴いた。
改めてこの指揮者は特別なのだと実感。
生命も宇宙も、この世界の全てが明晰に見えてしまうような場面がある。
それを見せられる人はほんの僅かだ。

チェリビダッケは魔法のようにそれが出来てしまう。
チェリビダッケについては、評論家の許光俊が最も深くその本質を語りきっている。
それ以上付け足すことは何も無い。
それでもあの途轍もない魔法を見せられてしまうと、
感動を語りたくもなって来る。

スウェーデン放送響とのライブ録音で、
チャイコフスキーとショスタコーヴィッチを聴いた。
驚くことに音楽は鳴り響きながら全く静止している。
最初から最後まで全体が克明に見えて来る。
全ては決まっていて、完璧にその場に存在している。
この世界の真実の姿が目の前であらわになる。

恐ろしい程、見えてしまう。
克明に明晰にその場に姿が刻まれていく。
始まりも終わりも無いかのように。ただただそのものがある。

成瀬巳喜男のどこからどこまでも完璧な「流れる」という映画のようだ。
2人共、何もかもが見えてしまう地点を描いている。

そこは全ての果てであると同時に今ここでもある。

絶対的な安心感に包まれて、全てがここにある。
みんなここに居る。

場において、表層に現れているものから、
奥へ奥へとその本質に入って行った時に見えてくる世界と同じだ。

幸せな景色の中に一緒に行きましょう。
みんなで。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。