2015年11月13日金曜日

遥かな深み

冬へ向かってどんどん寒くなる。
東京は暖房どうしようかな。そもそも少し片付けないと。
この部屋も寒くなって来た。

みんなが来るアトリエ部分は暖房で暖められるから大丈夫だけど。

それにしてもすぐに12月になってしまう。

2011年からずいぶん語って来た。書いて来た。
場の深みの中から見えて来るダウン症の人たちの在り方について。
あるいは場から見た人や社会や世界について。
場については結局どれだけ書いても書き尽くせない。
それは始めから分かっていたことだけど、
書くことによって明らかになって来たことも多い。

場と言うものがなければ、人にも世界にも出会うことはなかった。
本当にそう実感する。

場と言うものに出会う前の話をしよう。
原風景はそこにある。全ての始まり。

小さな頃の僕は様々な困難を抱えた人達と共にあった。
過酷な環境だった。
自然に覚えて行ったのは、勝負の感覚。
勝負と言うのは一つ一つの場面において、リスクを負って賭けるということ。
それによって何かを獲得すること。
言い換えれば、当たり前に自明に物事は存在していない、と言う自覚。
あるいは受け身でいて、誰かや何かが助けてくれるという思い込み、
甘さを捨て去ること。

目の前の人が偏見を抱いてこちらを見て来る、
あるいは悪意を持って見つめられる。
僕もそして僕の知る人達もそれは日常だった。
その時にどうするべきか、戦っても無駄なことは早い段階で気がつく。
方法は一つしか無い、相手の認識の隙をつく、
見解を揺るがし、ちょっとでも違う角度から見える景色に連れて行く。
そのために、間合いを合わせたり外したりする。
タイミングとセンス、リズム感がものを言う。
険悪なムードの中で一瞬にして笑いが起きる。
そうやって人が自分達を見つめる目線を変えて行く。
認識を深めてもらう。

関係が世界を変えてしまうことくらいはすぐにつかんで行った。
いい人も悪い人もいなくて、良さや悪さが現れる環境や関係があるだけ。
だから変化を自覚出来ていれば、どんな状況でも改善のすべはある。
能で言うところの離見の見みたいなのは自然に身につけざるを得なかった。
舞台の上に立つ感覚だ。
今日の条件、人数、それぞれの性質を見て行く。
さて、どう振る舞い、自分をどのポジションにおいてどう動かして行くか。
どうすれば、みんなが喜んでくれるか、気持ち良くなってくれるか。
その中で否定されそうな人、排除されそうな人がいれば、
どうすればその人が認められて行くか、を配置する。
見せ方を考える。可愛さを見せるか、面白さを見せるか、凄さを見せるか。
それぞれの瞬間において無数の方向性があり得る。

これを教えてくれた人達もいたが、ここでは書けないような立場の人達だ。

これが最初の地点だ。

障害を持つと言われる人達との出会いで、
この認識は場と言う概念にまで発展した。
一人一人の心の奥にどんな世界があるのか、
それは外へ現れていない部分がほとんどで、関係によって初めて見えて来た。
それまでは一人一人のが喜んでくれるところがゴールだったが、
そこから先は場の喜びとか、場面の美しさ、というより大きなことが見えて来る。
場自体が作品として美しいか、ということを追求し始めた。
やがて最高の場、最上の空間、を実現出来るまでになった。
途轍もなく美しく深い情景を共有出来るようになった。

人の本質や、更には生きている上での意味や幸せについて、
追求せざるを得なくなった。
最も極端な例で言えば、もう何をしてもこの世の中では、
救われない状況にいる人達にも沢山出会って来た。
だからより深く見て行くこと、この世を超える程の深さまで見ることが必要だった。

途轍もない深みから共感が生まれた時、
その認識の中で、ここに来ることが出来たのだから、
この景色を見れたのだから、僕達はみんな存在していて良かった、
というところまで行くことが出来た。それが最後のものだ。
同じ場に立った人達が人生最上の経験とまで言ってくれるようになった。
一番大切な一番美しい瞬間と言った人もいる。
見たことがなかったものだと、見てみたかったものだとも。
最高のものがそこにあった。命を持った存在の醍醐味がそこにあった。
場が教えてくれた。場が見せてくれた。場がここまで連れて来てくれた。
僕はようやく場の声を聴くことが出来た。

場の認識を深めて行くということは、この世界が夢として見えてくることであり、
全ては仮のもの、仮の姿であると言う自覚が生まれること。
沢山の人や人以外の無数の視点を同時に持ち、
様々な知覚と認識を行き来すること。
無数の時間と空間を同時に生きること。いくつもの生を生きること。
どこかからやって来て、どこかへ去って行く様々な現象を、
どこまでも明晰に、偏ることなく見つめていられることだ。

すべてはずっとずっとここにある。

制作の場において深く掘って行くと、
そこから自然に言語を超えた造形が生まれて来る。
そしてそこには調和と平和がある。

これが場におけるすべてだ。
何かイメージくらいは感じて頂けたらと思う。

繰り返し書いて来たことではあるけど、今日は真っ正面から書いてみた。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。