2015年11月2日月曜日

誰でもないところからの眺め

1、3週日曜午後クラスの方達から、お祝いを頂きました。
本当に有り難うございます。

今日は寒い一日。

前回の夢、幻の感覚の続きを書く。
夢のような見え方で全てが映ってくる、
と言うのはお能が言う幽玄のような境地かも知れない。

このブログで一番多く語って来たのは場のことだろう。
未だ触れていない話もあるのだけど、それはいつか何らかの形でと思う。

ダウン症の人達の持つ世界観を伝えて行く、という仕事が一方である。
今後はこちらの方が中心になるだろう。

彼らの世界と言うのと、場と言うのは重なるところが多いが、
それぞれが単独でも存在している。
ダウン症の人達に固有の世界があって、そこから人間の根源を考えることが出来る。
場と言うのは、その性質が最大限に引き出される何ものかだ。

場というのは一人一人の本質が浮かび上がり、お互いを活かす次元。

僕が初めて場に出会い、場を自覚したのはダウン症の人達に出会う以前のこと。
でも、きっかけは障害を持つと言われる人達と共に過ごした時間だった。

本当に遠いところまでやってきた。
場を知った時から、教えてくれる先生は誰もいなくなった。
たった一人で足跡の無い道を歩くしかなかった。
場においては誰よりも先まで歩いた。
誰も見たことの無い場所まで行って、誰も見たことの無い景色を見た。

ここでも誤解を恐れず、率直に言えば、
このようなことを生業としている人間の中では、
一番深いところにいると自覚している。そこに関しては客観視もしている。
誰もここまで来なかったし、残念なことに今後もそういう人は出て来ないだろう。

違うジャンルにおいてはもっと先まで見ている方が多くおられるが。

以前は見解の浅さに反発を覚えた業界も、今では何とも思わなくなった。
もともと関係のない世界だったと気がついたから。
僕らの場は福祉的な視点とは無関係だし、
かといって言うところの芸術というのともちょっと違う。
ただ人間とは何か、生命とは何か、という本質的なところから場を見て来た。

アウトサイダー?アール・ブリュット?
アートセラピー?
それらの概念が何をさしているのかも定かではないし、
本質に関わる議論が出来るとも思えない。

場とはそんなものではない。
あえて言えばもっと普遍的なもの。

ちょっと横道に逸れてしまった。

場において僕らは対象を変えようとはしない。
むしろ対象に応じて自分を変えて行く。
相手の見え方をなぞって行く。
そうすることで、自分自身の知覚は変化して行く。
見える世界も変わって行く。
今まで自分が見て来たものを実体化していてはそんなことは出来ない。
少しでも場を続ければ、自分など存在しないことに気がつくし、
見えている世界もすぐに変わって行く。
苦しんでいる人が居たとしよう。
その人を少しでも楽にさせたかったら、
その人に現れている苦しみをもっと深いところから捉えて、
別の場所に立ってみる見え方まで運べなければならない。
だから、場において自分の感情も人の感情も、
現れているものの奥にある動きを見る。
そうやって変化の扱い方を知って行くと、
人間の姿自体が仮のものであるという感覚になって行く。

無数の人々の心を行き来し、同時になぞる。
一生という言い方があるが、場を生きる以上は無数の生をなぞることになる。
もはや自分が誰なのか分かるはずが無い。

最近、「誰でもないところからの眺め」というマンガを読んだ。
震災によって人の心が崩れて行く、とう悲劇がテーマの一つであるには違いないが、
それ以上にもっと本質的に自分とか心とは何なのか、というテーマがメイン。
登場人物達は気がつかないうちに、自分の世界を失って行く。
見える景色も変わり、意思すら失われ、どこかへ連れられて行く。
感覚的にはこれは場に近い。
勿論、場には悲劇性は無いが。

モネの色と光のところでも書いたが、
本当はこの世界には区切りと言うもの、境界と言うものが存在しない。
どこまでが何なのか、本当は分けられない。

そういう見え方が深まってくるにしたがって、
夢のような感覚が強くなって行く。
どこかからやって来てどこかへ去って行く幻たち。

夢だからこそ鮮やかに輝き、懐かしい光が射している。
沢山の場を創ってくれた人達。共有してくれた人達。
一緒に生きてくれた人達。見せてくれている人達に感謝と、
そして切ないくらいの愛情を感じる。
誰でもないところからの眺めは、どこまでも美しい。


書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。