2013年9月23日月曜日

すっかり秋ですね。

今日は少し肌寒いくらい。
この三日間、とても良いアトリエだった。
作品も良いし、みんなの表情も良い。佐久間も良い仕事が出来ている。
全部の条件が揃って良い場になる。

またしばらく三重へ行ってきます。

いくつもの話し合いに出席している。
今は考えを良く理解してもらうことが大切だ。
組織としてまとまって行くための下地づくりといえる。

ゆっくりではあるけれど、良い方向に進んでいるはずだ。

難しさも当然あるけれど。
それに社会の情勢もあってこちらの思いと行為だけでは、
どうすることも出来ないこともある。
でも、前向きに進めて行く他ない。

何度も聴いた志ん潮の落語。言葉のリズムと息づかい。
頭の中で繰り返し鳴り響く。
オスカーピーターソンのピアノも。

最近よく聴いている(いまさら)フィッシュマンズも頭から離れない。

またしばらく音楽を聴かなくなるだろう。

秋の虫の声が心地良い。

いつでも今が一番良い時期に感じられる。
仕事にしても、生活にしても、今が一番充実しているように感じる。
同じことはもう起きないのだし、思いっきり良い流れを創りたい。

ブログはまた来月からです。
三重でも打ち合わせが待っています。
良い方向にすすみますように。

みなさん、またすぐお会いしましょう。

2013年9月22日日曜日

極意

昨日のアトリエは素晴らしかった。
今は色が良くのっている。鮮やかだ。光ってるみたいだ。

前回のブログで一枚の絵を見ている時のような感じで、
場全体を見るということを書いた。
最初に一番必要なのは現状把握なのだけど、これは一瞬で行われなければならない。
一瞬で把握するためには絵としてパッと見ることだ。

この感覚は大事なので前回だけでなく、何度か書いてきたと思う。

書いたけれども、書いたことは忘れるので、いつものように忘れていた。
そうしたら、ハルコがまたそのテーマを与えてくれた。

絵を描きながらハルコはみんなのことを話していた。
目は紙を見ているのだけど、明らかに他のメンバーのことが見えている。
近い距離感で語ってみたり、もう少し遠い感じで話題に入れたりしている。
みんなも笑っている。
視点は多角的ですぐに変化して行く。
とても良く見えている。

それからしばらくして、三重での合宿の絵を描くと言うと、
イメージの中で情景が見えてきたのか、様々な場面を語りだす。
まるで今おきていることのように。
聞いている僕達も感覚ごと記憶の中に入って行く。
良く覚えているなあ、とも感じるけど、これは単なる記憶ではない。
それよりもここでハルコが見ている場所が重要だ。
ちょっと離れて上から見ているような感じだ。
でも、上からと言っただけでは上手く言えてはいない。

時間は混ざり合う。過去と現在と未来。
それから、現実と夢とイメージ。
どこまでがどこまでなのかがはっきりしないというよりは、
すべてが同じ配分で存在している。

作品自体もやっぱり上から見たアングルで描かれている。
でも、そこには上からは見えない視点も導入されている。
だから上からとは空間的な上ではなく、もっと内在的というか、
すべてが見渡せる場所としての上とあえて言おう。
その場所自体もやわらかく、確固としたものではない。

自分や他人、内部と外部と言った境界はほんの僅かにしか存在していない。
というよりは主体だけが無くなって後のものは全部ある感じだ。
主体は完全にないのではなく極めて弱くなっている。
すべてがただ過って行くだけのもののように。

このような感覚が絵のように全体を見ることに繋がる。
ハルコのように感度が高い人達は生まれつき、
こういった視点を持っているように思う。

分かりやすい言葉がないので、「俯瞰」と言ってみることが多いが、
本当のことを言うとただの俯瞰とは違う。
俯瞰は離れなければ出来ないが、
この全体を見る目は離れずに行われる。

外をぶらぶら歩いているとき、歩調がぴたりと決まる時がある。
時が刻まれて行く感覚があって、
その場ですべてが正しい位置にあることが自覚される。
そのとき、歩きながら、制作の場の全体が見える。

変な言い方をすると、ここに居るけれどあそこに居るという感覚でもある。

全体の中でのこの瞬間の位置であったり、宇宙の中での自分や命の位置であったり、
そういうものを自覚する瞬間がある。

ふとした何気ない一瞬にすべてが見える。
それは本当に一枚の絵のようなものだ。
バランスがあり調和があり、何がどこにあるのかが感じられる。

全体を認識する感覚は言わば極意のようなものだろう。
そこにこそ彼らの作品の秘密があるような気がする。

2013年9月21日土曜日

月の光

静かな季節。
昨日の夜、月の光が怪しいくらいに奇麗だった。

会うべき人に会ったり、行かなければならない場所が色々あったり、
気がつくと一週間が終わっている。
やっぱり制作の場が良いなあ。ずっとこれをやっていたいなあ、と思ったりも。
でも、やりたいことと、やるべきことは違ったりもする。

今日から3日間連続でアトリエだ。
どんな作品と出会えるだろうか。どんな場をみんなで創れるだろうか。

夜が長くなって、体調も変わって来るし、特に意識のあり方は変わる。
これから冬にかけて明晰さが増して来る。
緊張と弛緩の割合は季節によっても異なる。
このことは制作とも深く関わることだ。

僕の言う「場」にはその中だけでなく、
外の動き季節や社会の流れにもある程度の要素が加わる。

スタッフによってスタイルはそれぞれだ。
自然体で感性で行くようなタイプも居るし、
コツコツと下地を固めて行くタイプもいる。
セッションのような関わり方もあるし、
相手の懐に入って委ねるような関わり方もある。

感覚で捉える人、分析して自覚を持ちながら動く人。

とにかく、みんなが気持ち良く制作に入ってくれるためには、
様々な努力と工夫が必要だ。
そういうことを楽しめて、自分を磨きながら進んで行ける人材が、
これからもっともっと必要になって来るだろう。
何もこのアトリエのことだけを言っているわけではない。
社会的にそういった人材育成が急務になるだろう。

僕達はスタッフはみんな同列だと思っている。
上も下もない。実はキャリアもほとんど関係ない。
そして、本当に必要なことは教えることが出来ない。

一人一人が自分のこころと身体でつかむしかない。

伝えられることは1つだけだと思う。
それは場に入る時の、挑む時の姿勢だ。
外に現れる動きは様々だろう。スタイルは色々あるだろう。
でも、向かう時の気持ち、構えは1つだ。
少なくとも、本物の仕事をしている人はみんな一緒だ。
その姿勢、覚悟と言っても良い。
そういうものは姿を通して、気配を通してしか伝わらない。
だからこそ、一緒に場に入ることは大切だ。

僕の場合は、あくまで僕の場合だけれど、
制作の場において、関わって行くとき、絵を見るように全体を把握する。
時間の流れも空間の奥行きも、一人一人のこころのありようも、
すべてを含めて一枚の絵のように見て、そこでのバランスの中で動き、判断する。
どの位置に何があるべきか、ということだ。
緊張と弛緩、強弱、勢いと静けさ、笑いと注意力、
近さと遠さ、主観と客観、時間と力のバランス、配分。
どんな要素も、ハプニングや、例えば負の要素もそれ自体が悪いわけではなく、
全体の中での置かれる場所、ポジションが重要だ。
美しくあるべきだ。調和が必要だ。

忘れてはならないのは、ただ上手く行っているだけでは意味がない、
ただ悪いことがないだけではダメだということだ。
おっ奇麗だなあと人が感じるような場にならなければならない。

これって人生だな、とも思う。

長い夜。月の光がいつまでもそこにあった。
ゆうたが電話をしてくれる時がある、「パッ、パパアー」と叫んでいる。
話しかけると「うーん」「ハイイ」と返事して聞いている。
可愛いなあ。嬉しいなあ、と思う。
毎日、変わって行く、毎日、成長して行く。
切なくもあり、嬉しくもある。

昨日は夜、落語のCDを聴いた。久しぶりだ。寄席にもぜんぜん行かなくなったし。
今はやっぱり志ん潮かな。でも文楽も馬生も小さんもいい。
僕にとって志ん潮は別格。一つの感性形だ。
亡くなった時は他のファンもそうだったろうが、もっと老成されて、
枯れた後の芸が見たかったと思った。これからが見物だったはずだと。
でも、今は見解が違う。
あれ以上の形はないというところまで完成された芸だったし、
ある意味で言うともうこれ以上は行きようがないというところに居たと思う。
以前、グールドのことを書いたけど、
早い時期に完成形に到達してしまう人と言うのがやっぱりいると思う。
それはそれで、辛いことなのではないだろうか。

見えない方が、分からない方が幸せということもある。

見えてしまったからには、行かなければならないのだし、
到達してしまったとしても、命ある限り、生きて行かなければならない。

それでも天才には華があって、見ていて与えられるものは大きい。

人生も世界も本当に不思議で、少なくとも、良い悪いの基準では計れない。
そもそも、基準を作って計ろうとするのが間違いなのかもしれない。

僕達はこの深淵を、ただどこまで楽しめるかということなのではないか。
何も分からないからこそ面白いと言うのは、
仕事でもいつも感じることだ。

2013年9月17日火曜日

どこまでも

今日はスッキリした良い天気。
さわやか。

今週は打ち合わせが続く。

状況はめまぐるしく変わって行くけど、その中で最善を尽くすしかない。

ここ数年で何人もの人がこの世から居なくなってしまった。
それも大切な人ばかり。正直、寂しい。

色んなテーマがある。色んな考えがあるし、色んな生き方がある。
価値観はそれぞれだし、誰も強制は出来ない。
最後に決めるのは自分自身。

ただ、最近よく思うのは人には2種類の方向があるのみ。
有限を相手にするのか、無限を相手にするのか。

無限を相手にする以上は探求に終わりはない。

先へ行かなければならない。どこまでも行かなければならない。

遥か彼方。

思えば、いつの間にか途方もなく遠くまで来てしまった。
もう戻ることは出来ない。誰しもがそうだ。

無限とか永遠とか、そういう呼び方しか出来ないものへ向かって、
どこまでも入って行く。進んで行く。
しかも、僕達は人という生の存在を通してそこへ向かう。

目の前にあるものが、与えられたものだ。
与えられたものに何を見るのか。そこから何を受け取るのか。
そして、どう動くのか。

すべての答えは始めからそこにある。

みんなで楽しもう。

2013年9月16日月曜日

昨日のアトリエで

朝から強い風が吹き続けている。
台風はこれから関東に一番近づく時間だ。

昨日は雨が降ったりやんだりだった。台風の影響で欠席の人も多かった。

少人数でのアトリエだったが、外の喧噪をよそに別世界のような静けさだった。
静寂があり、深さがあり、どこまでも行き渡る注意力があった。
作品はどの作家も素晴らしかった。

静かな静かな、場で、僕達はどこまでも深く深く入った。

アトリエの時間が終わってぼーっとしていると、
さっきまでが夢のように感じられる。
十数年続けていても、この感覚はいつでも不思議で新鮮だ。

本当はいつまでもこの経験を深めて行きたいし、
ずっと制作の場だけを真剣に取り組んで行きたい、という思いもある。
でも、これからはもっと広く進めて行くべき役割がある。

作家もスタッフも、その場にある机や椅子や絵の具を見ているのではない。
ただ、そこに座って手を動かしているだけではない。
もっと、もっと多くのことがそこでは動いている。
僕達は形になる前のものを見ようとしている。
気配を感じとろうとしている。
それが、見え、感じとれるからこそ、1つの世界が共有出来る。

撮影のカメラは絵を書いたり話したりしている姿しか追うことが出来ない。
でも、そこでは本当は見えていない何ものかを作家も僕達も追いかけている。
僕達にとってそれは明白で当たり前のことにすぎない。

もし、具体的な事物を通して、その奥にある見えない動きを、
少しでも感じることが出来るのなら、それは素晴らしいことだ。

制作の場を見学した人達は多かれ少なかれ何かを感じてくれている。
それは不思議なくらい伝わるものだ。

目に見えるものばかり追いかけるのはつまらないことだ。
今の社会や人々の価値観はほとんどそうなってしまっている。
だから表面的、表層的になる。考えも捉え方も浅い。

言葉だってそうだ。
言葉を通して言葉の奥にあるもの、
言葉にならないものを感じとることに意味がある。

人は普段、無意識の内に見えているとか聴こえていると思い込んでいる。
実際には見えても、聴こえてもいないことの方が多いのに。

制作の場に立つ時、一番大切なことは、人の奥にあるもの、
表情や言葉や、姿の奥にあるものを見ること。
絵や筆の動きばかりではなく、その奥でまだ形になってはいないけれど、
確かに強く動いているものを感じとること。
そして、大切に形となって見える領域に持ってくること。

場はただの人の集まりでもなければ、小さな空間でもない。
場には力があり、意思がある。
一緒にいる人達とそれを共有し、今よりももっと良いものを見つけていくこと。

これは単純なことだけれど、
意識をどこに向けるべきかという大切なことの1つだ。

この台風だって、近づく以前に強烈な気配があったように。
今、風の奥に存在の力があるように。
物事の奥にはそれをそれたらしめている動きがある。
まだそこにないのに、すでに動きが感じられるという、人間に備わった能力。
誰しもが持っているそんな力が感性だ。

上っ面ばかり見ていると分からない。
分かっていると思い込んで威張っていると感じられない。
もっともっと大切なものがあるはずだ。

2013年9月15日日曜日

今日は台風が近づき、大雨なのでみんながアトリエに来るまでが心配。

ここ数回、書いてきたことは今後のアトリエがどうあるべきか、
ということを考えて行くために必要なことだと思う。

一番大切なのは作家たちの生きるリズムを崩さないことだ。
盛り上がったものはやがて静かになり、ブームはやがて廃る。
そのことは良いことでも悪いことでもない。
でも、そこで生きている人達が翻弄されてはいけない。

静かに、小さくても良いから存続出来るものでありたい。
今、必要なのは沈まない船をつくることだと思う。

人に繋げること、人を育てることが重要になってくる。
どんなに社会が変わり、制度が変わり、流行が変わっていっても、
良い意思と確かな技術と揺るがない確信をもった人間が育っていれば、
その人達がどんな形であれ、継続して行くだろう。

だから、誰かだけという状態から脱却しなければならない。
誰かでなければ出来ないという状況はやはり不自然だ。

最後のところでは人、なのだろう。

人が育ち、人が繋がり、人が助け合える環境にして行きたい。

僕も外へ出て行く仕事が増えているが、すべては人に繋げて行くためだ。
必ず、良い形になって行くだろう。

絵画の制作に関しては東京の場合、僕一人でほぼ見ているけれど、
今後はこの体制を変えていきたい。
この環境をしっかり守って行ける人材があと数名は必要だ。
今のところ、僕が場を離れることはないのだけれど、
それが可能な体制になっていなければならないと思う。

様々な考え方が可能だろうし、ここはまだこれから変わって行く部分があるだろう。

さて、まだまだ触れたい話題もあるのだけれど、今日はここまでにします。

2013年9月14日土曜日

今日も1日

蒸しますねえ。

ちょっと金沢に行って来ました。
ここ数年は母の体調も悪く、出来ればたまに行きたいと思いつつ、
なかなか時間が取れないできました。

どこにでもある話だけど、金沢の街は変わって、
かつてあったものがどんどん無くなって行く。

とんでもないことに樹齢100年を超える木々の伐採もあった。

アール・ブリュットのことを少し書かなければ、
と思っていたが、やっぱりいいか、という気もする。
時の流れには逆らえないこともある。

1つだけ、芸術の側も福祉の側も、そして受容する側も、
深く考えることなく、安易な逃げ道として盛り上げようとしていることは、
先のことを考えると様々な危険があることを忘れてはならない。

厚労省と文化庁は障害者の芸術活動推進という名目で、
支援人材を育成するとして、予算を3億円計上していると言う。
このことが良い方向に行くのか、逆の結果をもたらすのかは、
「支援人材」をどう解釈するかにかかっていると思う。

一番、危険なのはアートは力を失い現代における役割として、
ケアやコミニュケーションを考えているということと、
福祉は作品の販売や商品化で本人に還元されたり、
工賃を上げる手段と考えていること、
この2つが重なることで、芸術と福祉のどこまでも低い次元での融合がおきる。

その結果、何が起きるか、消費する側から飽きられ、やがて見向きもされなくなる。
すでに起きていることだが、作品の質が問われなくなるからだ。

持続可能なシステムを作ることは難しい。
でも、やがて滅ぶことが分かっている安易な手段に逃げてはいけない。

これ以上は書かない。何かを批判するために活動しているわけではないから。

現実と時間が答えを見せてくれるだろう。
10年、20年経ったとき、どんな活動が残っているだろうか。
ダウン症の人たちの文化は生き残らせなければならない。
すべての判断基準はそこにある。

1ヶ月近くも、呼吸が浅い状態が続いていたが、
昨日、すっきりして元気になった気がする。

後に残って行く良い仕事をしたい。
本当のところでみんなのためになることをしていきたい。

金沢で久しぶりに大好きな珈琲屋に顔を出した。
ここの店主は偏屈者と思われているが、いい職人さんだ。
相変わらず良い仕事をしている。
世の中がどんなに変わろうと黙って淡々としているわけではない。
戦い、批判し、笑ったり怒ったりしながら、でも、珈琲の質だけは落とさない。
人から嫌われることも多いし、ほとんど理解されることもない。
ただ、数は少ないがこの店でなくては満足出来ない、という一部の客が支えている。
嘘や誤摩化しがないから、本気の仕事を感じて、
深く愛している人達がいる。
自分の仕事に忠実で、一生懸命やっていれば、伝わるものだ。
そういうものは残って行く。
まだ、あんな生き方が認められるのだから、世の中も捨てたものではない。

金沢という街も年々、魅力を失っている。
それでも、いくつか隠れた名店や良い仕事をしている人達がいる。
数人だけど、この人がいるだけで金沢に値打ちが出て来るといえる程の方もいる。
こういうところにお店の名前を書いてしまう人がいるが、
僕はそれはしたくない。
もし、金沢に行く人がいれば個人的に教えます。

変な話になってしまってごめんなさい。
東京に帰って来ると3通も大切な友人からの手紙が届いていた。
このタイミングは本当に不思議なのだけど重なる。
この人達が支えてくれているから僕もやっていられるのだな、と思う。
本当にありがたい。

理解してくれる人の数は少ない。未だに軽蔑の目で見られることさえある。
それでも、本物の人に理解されていたり、大切にされたりする。
あれだけの方が評価して下さるのだから、自分の仕事を信じられる、
という気持ちになる時もある。まあ、普段はそんなこと考えないけど。

一生の中であと何回場に入るのか、本当の仕事が何回出来るのか、
分からないけれど、一回一回に魂を込めなければと思う。
瞬間こそが残るということを僕は長い時間をかけて知ったのだから。
誰かや何かに確実に残って行く、この瞬間をおろそかには出来ない。

今日はどこまで行けるだろうか。

2013年9月8日日曜日

使命

昨日も良い場になった。
特に午後のクラスは本当にみんな活き活きしている。

さて、いくつか書くべきテーマがあるのだけれど、
波風立つことは今は控えたい。
これまで、何事もはっきり正直に書いてきた。
大袈裟に言えば真実に近づきたいからだ。
目的は良くして行くために、認識や考えを伝えることであって、
人を批判したり恐れさせたりするためではない。
そういう結果に繋がったなら本意ではない。

身近な人達は僕には何でも言える、と思ってくれているし、
若い仲間等は何を言っても許されるとさえ思っている。
そういう人達がいてくれて嬉しい。

でも、やるべき使命に忠実であろうとすれば、
戦わざるを得ない場面もあるし、厳しい姿勢で挑むことも多い。

最近、ちょっと寂しいのは無用に怖がられたり、
遠巻きにされることだ。
当たり前のまっとうな、常識的なことしかしていないのにと思う。

人を恐れさせて支配するようなことは、最も嫌いなことだし、
むしろ、そういう人や権威と戦ってきた。

本末転倒だけは避けたい。

ただし、今後も伝えるべきことを濁すようなことはしない。
誰も言わないのだったら、こちらが言う他ないという話が沢山ある。

天気は安定しないけれど、少しづつ涼しくなって、過ごしやすくなってきた。

何度か話題にしてきたが、障害を持つ人達との関わりにおいて、
アートや表現を触媒にしようと言う流れが強くなってきた。
そのような環境も増えているし、美大もそういったジャンルで、
学科を作ったりしている。
ワークショップやイベントも多くなったなあ、と思う。
おそらくは福祉の政策もその方面を推奨する方向にあるのだろう。

ここでいつもながらに、問題も感じざるを得ない。
最近もたまたまだが、関わる人間というテーマにふれた。
忘れてはならないことは、そのような人のこころと関わること、
制作と関わることは、無自覚に行ってはならないということだ。
車を運転するのにも免許がいる。医者にも資格がある。
当然だが、知識と経験がなければ危険だからだ。
これはこのようなジャンルで関わろうとする時も同じだ。

障害を持つ人達と制作を繋ぐということは、
まだジャンルとして確立されてはいない。
それぞれが曖昧な思いで動き出してしまっている部分が大きい。
結果がどうなるかは、僕には想像出来る。
何のために何をしているのか分からないような、
いい加減な活動と、さして魅力のない作品があふれかえるだけだ。
活動にも作品にも魅力や生命力がなければ、やがて注目する人がいなくなる。
外の人が興味を惹かれなくなったものは、狭い世界で少しづつ衰弱して行くしかない。

そのような結果に終わらないためには、
関わることを真剣に考えている人達を本気で育てていくしかない。

もう1つ。
アートとしても、たとえばアール・ブリュットが、
これまでの美術の歴史とは別の部分で注目されている。
これについては、ゆっくり書く必要があるが、今はその時間がない。
いずれ、纏めて書こうと思う。

ただ、今言えることは、2つの流れは共に、
まだまだ、深く考えられていないために多くの危険性を伴っている。
自覚的に考え、現状と過去を冷静に分析して、次に向かう必要がある。

僕の立場で言えることは、作家たちの魂を軽く扱うのはやめるべきだということだ。
これらの結果はすべて作家の魂と直結してしまうのだから。

関わろうと思う人間は、謙虚さと確信と強い責任感をもって、
人生を賭けて挑むべきだ。

2013年9月7日土曜日

大切な記憶

曇り空が続くけれど、静かで悪くない。

夜、窓を開けて寝ると寒いくらいだ。
夜風は気持ち良い。
昨日の夜、カラスが飛び回って何度も何度も呼び合っていた。
会話しているように。
何かの前兆か、と思いながらも寝てしまった。
虫の声もする。
良い季節だ。

久しぶりに飼っていた犬の夢を見た。
やさしい目をして、草原のような場所で。

毎日、ゆうたの写真を見る。

合宿中の夜、みんなで流星群を見た。
深い闇、深い夜の空は明晰に星の輝きとともにあった。
昼間は地球だけど、夜は宇宙にいるのだった。

あの時はあの人とあの人がいたとか、
それぞれの情景には必ず、人の思い出が入っている。

一緒にいた人達のことを忘れることはない。

触れる感触も、匂いも音も、すべてが消えずにここにある。

記憶というのは不思議なものだ。
本物の記憶は身体の奥深くにある。

ダウン症の人たちが絵を描くとき、そこにははじめ、なんの手がかりもない。
彼らは習い覚えたものとして描くわけではないし、
僕達スタッフも教えるということをしない。
でも、彼らはすらすらと描いて行く。
迷いもない。絵を描くという感覚すらない場合も多い。

これを何故だろうと思う人も多いだろう。
仕組みを知りたいと思うかもしれない。

知ろうとするより、感じてみることが大切だ。
私達も最初から知っているのかもしれない。
こころの奥深く、身体の奥深くにある、生命の記憶に刻まれている感覚。

制作の場に向き合い、そこで経験することとは、
そのような人間の根本に関わる何ものかだ。

あるいは作品を見て美や調和を感じているとき、
私達は自らの内側にある本質を思い出しているのではないだろうか。

だから、ゆっくり作品を鑑賞し、味わって欲しい。
何か大切なものが感じられるはず。
それは今まで存在していなかった世界なのではなく、
ずっとずっとそこにありながら私達が忘れてしまっているものなのかも知れない。

僕の父は下町の工場の生まれで、早くに亡くなった人も多いが、
兄弟は10人近くいたはずだ。
それぞれが本家のようなところに戻って来ると、凄い人数になる。
家も大きかった。
父と母は早くに離婚していたので、いつの記憶なのか分からないけど、
僕はその家にいてみんなを見ていたことを思い出す。
いつも誰かがピアノを弾いていて、その音が心地良かった。

その時のみんなのいる感じを、僕はやっぱり絵のように覚えている。
そして、そこで鳴り響いていたピアノの音をふと思い出す時がある。

なにもかもが予め決まっていて、そこへ向かってすべては流れ、
消えて行くのに、それでも僕達は全力で行きて行くことしか出来ない。
そんな風に感じることがある。
それは切ないことでもあるけれど、
何か素敵な素晴らしいことでもあるような気がする。

宮崎駿監督が引退した。明日、オリンピックの開催地が決まる。

いつか、大きな地震が来るのだろうか。富士山はどうなるのだろうか。

今日はどんな場になって行くのだろう。
大切なものに触れる時は、注意深くやさしく、緊張感を持ちながらも、
ワクワクするような感覚になる。
場に入る時もいつも同じ。

さあ、今日も始めよう。

2013年9月6日金曜日

秋の気配。
この季節は僕にとっては寂しい感じがする。
でも、しみじみして楽しかったこととかを思い出したり、
大事な時間になったりもする。

外での仕事や打ち合わせが多くなってきて、
なんだか話すことが仕事のような変な気分だ。

さっき、喫茶店で稲垣君と遭遇。
彼とは本当にばったり会う確率が高い。
合宿後、最初の出会いだったので色々話した。

いろいろあるけど、いつも本当に思う。
僕のところに来てくれている若い人達。彼らが一番の仲間であり理解者なのだと。
純粋だから裏切れないなとも思う。

稲垣君は今、色んな場所で撮影しながら、どんどん新しいものに向かっている。
真剣に学んで自分を磨こうと挑戦を続けている。

話していておっと思ったのは、
彼が自分を磨いて行こうと思った動機についてだった。
良いことを聞かせてもらったと嬉しかった。
アトリエに来て、制作の場を見て、彼が気づいたこと。
それは、人は裸で存在していて、それだけで美しくなければならない、
ということだった。
どんなに着飾って、武装して、自分を誤摩化しても、
場に入って通用するものではない、と。
彼はアトリエで自分が通用しないと感じたと言う。
その悔しさを忘れないで、人間として自分を磨きたいと思ってやっていると。

彼の気づきは極めて本質的だ。

そして、制作の場での経験がそんな風に、
自分を育てて行くことに繋がってくれているなら、
これが本当に大切なこの場の役割の1つだと思う。

だからこそ、僕達は日々、真剣勝負だ。

彼が鋭く見抜いてくれていたように、
場においては、いっさいのウソや誤摩化しが通用しない。
言い訳しても無駄だ。
場に入った瞬間に、座った瞬間に、立った瞬間に勝負は決まってしまう。
ダメな場合は何をやってもダメだ。
逃げも隠れも出来ない。

僕達は捨てて、捨てて、裸になって場に立つ。
真っ正面から本質に向かって行く。

怖いことだし、厳しいことだとも言える。
でも、だからこそ楽しい。

逃げも隠れもせず、ここにいる。
その正直さがすべてを良くしてくれる。

せっかく生まれてきたのだから、
お金を貯えることや、地位や名誉を追い求めることに価値をおくのはつまらない。
権力にしがみついたり、媚びたり、恐れたりしてるだけで終わるのはばかばかしい。
威張ってみても、チヤホヤされても虚しさは消えない。

せっかく生まれてきたのだから、美しくありたい。
美しさは強さと共にある。
いまここで、真っすぐ立って、事物を慈しむ。
そうしてみると、他に何もいらなくなる。恐れもなくなる。

媚と恐れとプライドを捨て去れば、人は美しくなる。
制作の場ではそんな姿で向き合わなければならない。

明日もみんなのと真っすぐ繋がって行こうと思う。

2013年9月2日月曜日

再び、関わることについて

今日はちょっと別の話題で。

昨日のアトリエで、何気ないほんの5分程のこと。

しばらく前に、なんだか足がだるいなあと思っていた。
そして、気がついた。
アトリエ中、ずっと立ちっぱなしだからだ。
これまでずっとそうだったなら慣れているから疲れない。
そう、立ちっぱなしになったのはここ1年位の間だ。
それも立ちっぱなしになった時期から、制作の場において僕自身が使う、
体力やエネルギーは格段に必要なくなった。
だから、足はだるくなったけど、そんなに疲れない。

個人よりは場をより見るようになったし、何と言うか軽くなった。
僕のテーマはずっと「深く入ること」だった。
このことは以前も書いたが、今はそんなには深く入らない。
深く入らなくても、一人一人に必要なものは与えられるようになった。
与えるという表現は本当は適切ではないのだけど、
スタッフとしてやらなければならないことはある、というだけの意味で使う。
気をつけるべきは、与えようと思う人はスタッフとしては不適切だということだ。

そのことが何故、立ちっぱなしの理由かと言うと、
僕の場合、相手の隣に座ると、座った瞬間からその人の内面の深くに入る。
それはこちらでも分かるし、相手にも分かる。(無意識に分かる場合も含めて)
少し離れて見ている場合、どうしても立っていることの方が多くなる。

勿論、こんな物理的なことだけではない訳で、
座っても入らないこともあるし、立っていても深く入ることもある。
わざとそうすることもあるし、たまたまそうなることもある。
更に言うなら、立っていることは知らない人がやると、
確実に場を乱す結果となることを忘れてはならない。
制作している人達より視点が上にくるのだから当然だ。
威圧感も緊張感も与えてしまう。
ある程度の影響のコントロールが出来て、
気配を出したり消したり出来なければ、立ったまま見ているのはよくない。

前置きが長くなってしまった。
昨日のアトリエでのことだった。
みんながすらすら描いて終わって行く中、
まあゆちゃんの筆の動きがずっととまっていた。
彼女の場合はこんなことは良くある訳で、最後には描いていくので別に問題はない。
でも、僕を見た目が近くに座って欲しそうだったので、座ることにした。
最近は自立心が強くなっていたので珍しい。
彼女を見ないで自然に隣に座ると、耳元で「久しぶりな感じですね」と言われる。
凄い敏感さだ。すべて分かっている。
そして、本当に小さな声で、そっと、ゆっくりと「どうですか」と何度か。
筆を持って僕の方は見ずに、「また、一緒に行きましょう」と言う。
すると、虫の声がチ、チチチチ、と急に聴こえて来る。
筆は自然に動き出し、色が重ねられて行く。
透明な世界が広がる。魔法のように5分くらいですべては終わる。

僕が大切にしてきたこと、関わるということはこういうことを言う。
彼女の言った「一緒に行きましょう」という言葉。
それはこちらもいつでも同じだ。
何度も何度もこういった言葉を聞いてきた。
「行こうね」とか「奇麗なもの見せてあげるね」とか、そんな言葉を。
言葉にはしないでも態度や気配で同じことを伝えられることはもっと多い。

こういうことは大切なことで、本当は人には話したくない。
でも、書いたのは、関わることの繊細さと責任を知ってもらいたいからだ。

ダウン症の人達のみならず、
様々な障害を持つ人達の制作する環境は、これからもっと増えて行くだろう。
作品を世に出したり、売ったりしようという流れも強くなっている。
そんな中で僕が最も危惧しているのは、関わる人間の問題だ。
何度か、書いたかもしれないが、彼らの場合、誰が一緒にいても同じではない。
まだまだ、このジャンルの必要性は認識されてはいないが、
僕は「関わるプロフェッショナル」が必要だと考えている。
そういった人材も育てて行く必要があるし、
そういう存在が必要であるという認識も広めなければならない。
そこを抜きで宣伝や経済活動が動き出すのは怖いことだ。

これまでは作品や作家たちの魅力を中心に語ってきたが、
次には環境や関わる人間の仕事についても、
しっかりと1つのジャンルとして確立して行くべきだと考えている。

2013年9月1日日曜日

今日もアトリエ

さてさて、アトリエ前に準備が手間取ったので、
今日はゆっくり書く時間がありません。

諸々のイベントが終わり、普段の制作の場での仕事に帰っていく。

ちょっとだけ体調をくずし、久しぶりに音楽を聴いて、
歩いて、これも少しだけ夏をふりかえった。

これから進むべき方向も見えている。

更に色んなことがおきるだろう。

変えていくこと、より良くしていくことしか考えていない。
これまでのスタイルはもうそろそろ終わりにしようと思っている。

アトリエの作家たちのこころの世界は、
人間の原風景のようなものだ。
そこを見て、その手触りを味わって、そこからもう一度この世界に触れてみる。

やさしさ、平和、美の感覚、楽しさ、調和。
人と人、人と自然、世界や宇宙との関係。すべてとの繋がり。
言葉としてではなく、こころの奥からくる感覚を取り戻そう。

今の世界に必要なのはそのような、調和の感覚を知っていながら、
戦える強さをもった人々だと思う。

作家たちの世界に潜って、そこで知ったことを持って帰ってきて、
この混乱した世の中に挑んでいくべき時だ。

謙虚になって、もし上手く聞き取ることが出来たなら、
必要なことは全部分かるはずだ。

これから、僕自身もこれまでとは違う流れを創って行くことになるだろう。
詳しくはまたゆっくり書きます。
まずは、今日も場に入り、みんなと1つになって、どこまでも深く潜ります。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。