2012年9月26日水曜日

調和の文化

今日は晴れて光がとてもきれいだ。
アトリエの近くの小学校は運動会の練習を続けている。
賑やかで静かで不思議な雰囲気。
すっかり秋だ。空気も乾いて来たし、空も高くなった。

このブログもなるべく更新していこうと思うが、
またしばらく書けないかも知れないので今日は再びメインのテーマにしてみた。

アトリエの活動をすすめる中で様々な視点と向き合い、付き合って来た。
複雑に入り組んでいて、本来の目的が見えにくくなることもあった。
対象となるテーマには本当にたくさんの問題がつきまとうから。

私達の目的とするものや、視点はきわめて明晰でシンプルなものだ。
時にこのシンプルさが人々には分かりづらかったりもする。
なぜならみんな複雑な問題に囲まれているからだ。

福祉の問題。社会での権利の問題。教育の問題。
芸術の問題。経済の問題。価値観の問題。
その都度、様々な立場の方と意見を交わす。

僕達は一つの文化を問題にしている。
本当はそれにつきる。
権利や平等を主張したい訳でもなければ、
今の社会の経済原理に彼らを適合させたい訳でもない。
教育の問題も芸術の問題も、彼らの世界が知られることで、
何かしら新たな可能性を提示出来るはずだとは考えているが、
それだけがメインだとは思わない。
それらはあくまで結果ついてくるものにすぎない。

私達はただ一つのことに目を向けてもらえればと願う。
それはここに一つの文化があり、そのことに誰も気がつかずにいるということだ。

それは障害うんぬんの問題とはベクトルが異なる。
ただたんに彼らにはすぐれた才能があると主張したい訳でもない。

一つの文化があり、世界があるという事実。
そして、私達は未だその事実を知らず、ある意味で無視し続けている。

現代社会が作って来た文化は頭の文化と言っても良いし、
言語の文化といっても良いかも知れない。
ダウン症の人たちは、そこに適合しなければならない存在ではなく、
もう一つの別の文化を持って生きている人達だといえる。
誰しもが少しづつ気がついて来ていることだが、
今ある文化はいきづまっている。至るところに限界が見えている。
他の原理を排除し続けて作って来たものが、
自らをも排除せざるを得なくなって来ている。

異なった価値があり得るということ。
もっと平和な文化を創ることが出来ると言うことを私達は感じ始めている。

ダウン症の人達に学ぶことが出来るはずだ。
彼らの文化は調和の文化と呼ぶことが出来るだろう。
頭や言語中心の文化とは異なり、情緒と感覚を中心とした平和的な文化だ。
ここに私達が真に求めている、安らぎと人と人の繋がりがある。

虚心になって見てみたいと思えば、いつでもこの文化は語りかけてくれる。
ダウン症の人たちは私達にとって大切な事を教えてくれる。
思い出させてくれる存在だ。
そんな世界を否定したり、見逃したりしてはいけない。
障害の問題や、異なった領域のこととして片付けてはいけない。

出生前診断でいったい何が分かるのだろうか。
産む、産まないを決められるほど、私達は知っているのだろうか。

意味なく存在するのもなど何もない。
でも、意味は読み解かなければならない。
意味を読み解けないからと言って無意味としたり、
ないことにしてはいけない。
決定的に大切な何かを失ってしまうことがあり得る。

今の時点で僕のような人間に言えることは、
この文化には途轍もない価値があり、私達はまだまだ学ばなければならない、
ということだ。
この文化に学ぶことは、この世界が生き残っていくための、
必須条件であるとさえ思える。

みんながみんな同じようには思わないのは当然だ。
でも、存在しているものをちょっとでも知ってみることは、
誰にとっても必要なことではないだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。