ようやく本格的な雨だ。
夏も終わった。もうお彼岸。
確か、今回で今年に入ってから100件目のブログだ。
色々書いて来たけど、何も語れていないような気もする。
アトリエの活動をすすめて、作家たちと向き合っていく日々。
その中から、見えること、感じることをテーマに書いている。
でも、いつも核心には触れないように、あるいは触れ過ぎないようにしてきた。
核心部分ではなく、その周辺や、それに関わることを中心に書いている。
何故か。それも何度か書いたが、みんなに自分で感じて欲しいからだ。
自分で見つけだして欲しいからだ。
僕自身がこの場に何を見るか。何を感じるか。
それを言ってしまっては、一人一人の気づきを方向付けてしまう。
でも、今日はさわりの部分だけでも書いてみよう。
そろそろ、経験を分かち合う時期だと感じるから。
核心を書かないのにはもう一つ理由がある。
当然すぎることだが、書けない、つまりは言葉には出来ないということだ。
体験とは言葉を超えたものだ。
ダウン症の人たちから、学べということを言ってきた。
一体何を学ぶべきなのか。
これまで書いて来たような要素。
平和であったり、豊かさであったり、新鮮さやシンプルさ、
感覚の力、こういったものをいくら考えても核心にはたどりつけないだろう。
本当に大切な事は一つだけだ。
変わること。自分自身が変わることだ。
本当に何かが見えたのなら、もうこれまでのようには見えないだろう。
本当に何かを経験し、知ったのなら、かつての自分は消えてなくなる。
見方や感じ方、認識自体が変化していかなければ、何も経験したことにはならない。
これまで書いて来たような、柔らかな認識の世界は実在している。
私達自身がそのように見えたり、感じられたり出来るようになる。
変わること。自分が変われば世界も変わる。
平和や調和は自分の内面の変化がなければ、見つけることができない。
彼らから何を見つけられるのだろう。
一言でいうなら、人間のこころにあって私達が普段使っていない、
一つの機能を目覚めさせること。
彼らの持っているこころの機能とは、私達にも本来備わっているものだ。
彼らのようにこころを動かしてみれば分かる。
私達がどれほど圧倒的なものに囲まれているのか。
目の前にすべてがありながら、気がつかないでいたのか。
生きることは、もっともっと、どこまでも深いこと。
凄いこと。私達のいる世界は大きく深く、無限のようでも永遠のようでもある。
もっと見えるように、感じられるようになるために、
僕達は日々、変わっていかなければならない。
自分の立っている場所に、目がくらむような無限を感じられるはず。
僕が1人の人の制作と向き合うとき、
その人とこころの深くまで歩く時、
様々な情景をぬけてすすんでいくと、なんにもないけどすべてあるような場所がある。
どこまですすんでも終わりというものがない。
ただひたすら、奥へ奥へと入って行く、そのプロセスだけがある。
いろんな人が教えてくれた。
「もっと見えるようになるよ。もっと感じられるようになるよ。」と。
「もっとすすんでみよう」「もっと行ってみよう」と。
どこまでも終わりのないプロセスがある。
ここがどこだか分からないけど、ここにいると幸せという場所がある。
そこはどこでもない場所で、僕達はただ歩き続けるだけ。
生きること、創ること、響き合うこと。
果てしない繋がりのなかで、見ること、感じていること。
そんな認識の深みを、僕達は知ることが出来る。
耳を澄まし、敏感に感じてみようとさえすれば。