2012年9月18日火曜日

孤独について

前回は時には背伸びする事も必要というようなことを書いた。
だって、今は本当にみんな癒されようとばかりしていて、
生物として不自然だと思う。

先日もテレビで20代の役者が、この歌を聴くと、自分らしくあれば良いんだ、
人の事を気にしなくていいんだと思えて、慰められるという話しをしていた。
正直に言って、僕はそんな考えに浸ったことはない。
自分を慰めたり癒したりしている場合だろうか。

まあ、いいんだけど。
悩むことが出来るのは余裕があるからだと思う。
かつて、同じ現場で働いていた友人が僕に言ったことを思い出す。
佐久間はいいなあと。仕事のことで悩まないし、迷わないし、
自分はここでどうしようと立ち止まってしまったり、身動きがとれなくなる、と。
僕はその発想が不思議で仕方なかった。
僕はいつでも必死でそんな余裕がなかった。
その場、その場に即座に対応していく。
自分のことを考える暇などない。

このままで、自分らしくあれば良いと思ったこともない。
もっと良い状態があるはずだと常に思っている。

アトリエのことも書こう。
プレクラスにはあきこさんという人に来てもらっている。
2人のお子さんがいるので、お迎えの時間まで、いつも2時頃までだけど、
平日は月、火、水曜日、毎日来てくれる。
あきこさんとみんなとの関係も少しづつ出来てきている。

ゆりあが写真の方の仕事に行くことになったので、
次の人達が入るまで、土、日の絵画クラスは僕が1人の日もある。

久しぶりに1人でアトリエを進めていると、色々と勉強になることも多い。
そして、アトリエだけではなく、何かに向き合う時、
1人になること、1人で向かうことはとても大切だと思う。

1人でなければ見えないものは確実にある。
アトリエを見学したいと言ってくる学生にも、友達とは別々においでという時がある。
友達と一緒だといつものものしか見えないからだ。

人といる素晴らしさ、共有できることの大切さも忘れてはならないが、
たった1人で挑むということがどうしても必要だと思う。

たった1人で挑むということは、孤独になること、
孤独を引き受けるということだ。

どんなことでも、何かを真剣に続けていくなら、
深めていくなら、周りにどれだけ人が居ようとも、孤独になるだろう。
その孤独には途轍もない価値がある。
孤独にならなければ真実に近付くことは出来ない。

あの3•11の後、僕はアトリエを再開するために準備していたが、
僕1人では難しかったので、学生のイサとの共同生活を開始した。
彼の協力があってあの時、アトリエをすすめることが出来た。
そんなこともあって震災の後、僕は色んな人と一緒にいた。
三重までよし子とまだお腹にいたゆうたに会いに行って、
今後のことを話し合った。
三重まで一緒に行ったイサと、合流したゆりあと3人で東京に帰って来て、
駅で解散して家に帰った時、僕は本当の意味ではじめて震災を知った。
街は真っ暗で人もほとんどいなかった。
たった1人で夜の街を歩いた。
すべてが終わってしまったのだということを実感した。
正直に言うと寂しかった。
でも、この寂しさを全身で味わわなければ、と思っていた。
良いものも悪いものも、誤摩化してはいけない。
真実を知らなければならない。実感しなければならない。
そのためには孤独になることが必要だ。

前にも書いた。
たった1人で無限に向かっていく時の感覚を。
鳥肌が立つような感動と畏怖の感情。
世界の大きさと人間のこころの不思議。
本当のことを知るために、見るために、僕達はいったん孤独になるけれど、
その孤独は圧倒的に素晴らしい体験を与えてくれる。
恐れて逃げているのは勿体ない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。