前回は時には背伸びする事も必要というようなことを書いた。
だって、今は本当にみんな癒されようとばかりしていて、
生物として不自然だと思う。
先日もテレビで20代の役者が、この歌を聴くと、自分らしくあれば良いんだ、
人の事を気にしなくていいんだと思えて、慰められるという話しをしていた。
正直に言って、僕はそんな考えに浸ったことはない。
自分を慰めたり癒したりしている場合だろうか。
まあ、いいんだけど。
悩むことが出来るのは余裕があるからだと思う。
かつて、同じ現場で働いていた友人が僕に言ったことを思い出す。
佐久間はいいなあと。仕事のことで悩まないし、迷わないし、
自分はここでどうしようと立ち止まってしまったり、身動きがとれなくなる、と。
僕はその発想が不思議で仕方なかった。
僕はいつでも必死でそんな余裕がなかった。
その場、その場に即座に対応していく。
自分のことを考える暇などない。
このままで、自分らしくあれば良いと思ったこともない。
もっと良い状態があるはずだと常に思っている。
アトリエのことも書こう。
プレクラスにはあきこさんという人に来てもらっている。
2人のお子さんがいるので、お迎えの時間まで、いつも2時頃までだけど、
平日は月、火、水曜日、毎日来てくれる。
あきこさんとみんなとの関係も少しづつ出来てきている。
ゆりあが写真の方の仕事に行くことになったので、
次の人達が入るまで、土、日の絵画クラスは僕が1人の日もある。
久しぶりに1人でアトリエを進めていると、色々と勉強になることも多い。
そして、アトリエだけではなく、何かに向き合う時、
1人になること、1人で向かうことはとても大切だと思う。
1人でなければ見えないものは確実にある。
アトリエを見学したいと言ってくる学生にも、友達とは別々においでという時がある。
友達と一緒だといつものものしか見えないからだ。
人といる素晴らしさ、共有できることの大切さも忘れてはならないが、
たった1人で挑むということがどうしても必要だと思う。
たった1人で挑むということは、孤独になること、
孤独を引き受けるということだ。
どんなことでも、何かを真剣に続けていくなら、
深めていくなら、周りにどれだけ人が居ようとも、孤独になるだろう。
その孤独には途轍もない価値がある。
孤独にならなければ真実に近付くことは出来ない。
あの3•11の後、僕はアトリエを再開するために準備していたが、
僕1人では難しかったので、学生のイサとの共同生活を開始した。
彼の協力があってあの時、アトリエをすすめることが出来た。
そんなこともあって震災の後、僕は色んな人と一緒にいた。
三重までよし子とまだお腹にいたゆうたに会いに行って、
今後のことを話し合った。
三重まで一緒に行ったイサと、合流したゆりあと3人で東京に帰って来て、
駅で解散して家に帰った時、僕は本当の意味ではじめて震災を知った。
街は真っ暗で人もほとんどいなかった。
たった1人で夜の街を歩いた。
すべてが終わってしまったのだということを実感した。
正直に言うと寂しかった。
でも、この寂しさを全身で味わわなければ、と思っていた。
良いものも悪いものも、誤摩化してはいけない。
真実を知らなければならない。実感しなければならない。
そのためには孤独になることが必要だ。
前にも書いた。
たった1人で無限に向かっていく時の感覚を。
鳥肌が立つような感動と畏怖の感情。
世界の大きさと人間のこころの不思議。
本当のことを知るために、見るために、僕達はいったん孤独になるけれど、
その孤独は圧倒的に素晴らしい体験を与えてくれる。
恐れて逃げているのは勿体ない。