2012年9月26日水曜日

調和の文化

今日は晴れて光がとてもきれいだ。
アトリエの近くの小学校は運動会の練習を続けている。
賑やかで静かで不思議な雰囲気。
すっかり秋だ。空気も乾いて来たし、空も高くなった。

このブログもなるべく更新していこうと思うが、
またしばらく書けないかも知れないので今日は再びメインのテーマにしてみた。

アトリエの活動をすすめる中で様々な視点と向き合い、付き合って来た。
複雑に入り組んでいて、本来の目的が見えにくくなることもあった。
対象となるテーマには本当にたくさんの問題がつきまとうから。

私達の目的とするものや、視点はきわめて明晰でシンプルなものだ。
時にこのシンプルさが人々には分かりづらかったりもする。
なぜならみんな複雑な問題に囲まれているからだ。

福祉の問題。社会での権利の問題。教育の問題。
芸術の問題。経済の問題。価値観の問題。
その都度、様々な立場の方と意見を交わす。

僕達は一つの文化を問題にしている。
本当はそれにつきる。
権利や平等を主張したい訳でもなければ、
今の社会の経済原理に彼らを適合させたい訳でもない。
教育の問題も芸術の問題も、彼らの世界が知られることで、
何かしら新たな可能性を提示出来るはずだとは考えているが、
それだけがメインだとは思わない。
それらはあくまで結果ついてくるものにすぎない。

私達はただ一つのことに目を向けてもらえればと願う。
それはここに一つの文化があり、そのことに誰も気がつかずにいるということだ。

それは障害うんぬんの問題とはベクトルが異なる。
ただたんに彼らにはすぐれた才能があると主張したい訳でもない。

一つの文化があり、世界があるという事実。
そして、私達は未だその事実を知らず、ある意味で無視し続けている。

現代社会が作って来た文化は頭の文化と言っても良いし、
言語の文化といっても良いかも知れない。
ダウン症の人たちは、そこに適合しなければならない存在ではなく、
もう一つの別の文化を持って生きている人達だといえる。
誰しもが少しづつ気がついて来ていることだが、
今ある文化はいきづまっている。至るところに限界が見えている。
他の原理を排除し続けて作って来たものが、
自らをも排除せざるを得なくなって来ている。

異なった価値があり得るということ。
もっと平和な文化を創ることが出来ると言うことを私達は感じ始めている。

ダウン症の人達に学ぶことが出来るはずだ。
彼らの文化は調和の文化と呼ぶことが出来るだろう。
頭や言語中心の文化とは異なり、情緒と感覚を中心とした平和的な文化だ。
ここに私達が真に求めている、安らぎと人と人の繋がりがある。

虚心になって見てみたいと思えば、いつでもこの文化は語りかけてくれる。
ダウン症の人たちは私達にとって大切な事を教えてくれる。
思い出させてくれる存在だ。
そんな世界を否定したり、見逃したりしてはいけない。
障害の問題や、異なった領域のこととして片付けてはいけない。

出生前診断でいったい何が分かるのだろうか。
産む、産まないを決められるほど、私達は知っているのだろうか。

意味なく存在するのもなど何もない。
でも、意味は読み解かなければならない。
意味を読み解けないからと言って無意味としたり、
ないことにしてはいけない。
決定的に大切な何かを失ってしまうことがあり得る。

今の時点で僕のような人間に言えることは、
この文化には途轍もない価値があり、私達はまだまだ学ばなければならない、
ということだ。
この文化に学ぶことは、この世界が生き残っていくための、
必須条件であるとさえ思える。

みんながみんな同じようには思わないのは当然だ。
でも、存在しているものをちょっとでも知ってみることは、
誰にとっても必要なことではないだろうか。

2012年9月25日火曜日

自分を離れる癖

雨の日が続いている。
台風が来ているのでよし子の喘息もあり、ゆうたもぐずっている。

よし子とゆうたが今年いっぱいで三重へ移動するので、
荷物の整理と掃除をすすめなければいけないが、今は埃が出る作業が出来ない。

ところで、職業病というものがあるが、
そのことを生業として続けていると、心的、身体的に偏った癖がついてくる。
どこかに過剰に敏感であったり、逆にどこかが機能しづらくなっていたり。

僕の場合だと、他に似たようなことをしている人がいないので、
なかなか理解してもらうことが出来ないだろう。
意外な部分が偏ってくる。
ただ、人それぞれ生活しているので、どこかで調整するすべも身に付いている。

僕は10代の頃から、人の心がある密度で凝縮された場というものを、
自分の働く舞台としてきた。
その場には人のこころ、気持ち、感情、闇や光や、本能や野生といったものが、
猛烈なスピードで行き来する。
そういった場には失敗が許されない。
失敗すると人も自分も傷を負い、下手をすると命にも関わる。
それは身体と精神両面での話だ。
自然とかなりの集中度というか緊張感が持続していく。
かといって力を抜ききる技術がなければ、どうにも動かない。
こういった場にいながらも、場を自覚する人としない人がいる。
更には場が見えるという人がわずかにいる。
僕の場合は早い時期から場が見えた。
ある部分は手に取るほど明晰に、なんの努力も必要なく認識出来た。
でも、それはつらいことでもあった。

場の中で自覚を持つ前に失敗し、身動きとれなくなる人、
逃げていく人、中にはこころか身体に怪我を負う人。
色んな人を見て来たけれど、場で失敗する時、最後のところでは、
自分が自分を追い込んでいる。いわば自滅といった感じだ。
自分の心と身体の動きが見えなくなるから失敗する。
多くの場合、それは自分を捉えられない、
自分を客観視出来ないことに原因がある。
つまりは自分にとらわれてしまうことがすべての原因となる。
そこで自分を即座に離れるということが一番大事だ。
特に感情からある一定の距離を置くことだ。
感情は癖になっているから、見えにくいし、捉えにくい。
スピード感が必要だ。即、見抜いて距離をとる。
感情から離れる。自分から離れる。
場においては自分や感情に無意識であってはならない。
それらは適切な場所に置くことが大切だ。
そのためには捨てるのではなく、一旦距離をおく。
これがしっかり出来ると場において自滅することは無くなる。

何となくでも伝わるかな。

僕の場合はこの場における、自分を離れるということが癖になっている。
いつの間にか普段の生活にもそんな癖が出ている事がある。
勿論、普段は個人としてのわがままな部分も出しているのだけど、
大切な時にふと、自分や感情に距離をおいてしまう場面がある。

それで誤解を受けることもあったし、最近は見直さなきゃなと思っている。
例えば、人間的な感情が感じられないとか、嬉しいとか悲しいということを、
素直に表さないことが、周りを不安にさせたり、
共感を感じられなかったりさせることもあった。

僕自身は大切に思うことはあえて言わなかったりもしていたし。

一方で場を離れた普段の自分は子供のままで、
ぜんぜん成長していないのではないかと思えることもある。

これからは人間佐久間の部分を素直に出していければ、と考えるこの頃です。

2012年9月23日日曜日

かさたりつえたり

あんまり時間はないけど、今は書ける時にはなるべく書きたい。
今日は雨が強い。

ダウンズタウンも積極的に協力して下さろうとする方もいて良い動きが生まれそうだ。

昨日のアトリエでけい君が「さくまさーん。おとうさんーん」と言いながら爆笑。
何度もゆうたの顔と僕の顔を見て笑う。
僕が父親なんて本当に不思議で可笑しいようだ。
みんな、本当に分かってるなあと思う。

てる君もよく僕がみんなとふざけているとき、
「さくまさん、お父さんでしょ」と制してくれる。

みんな、僕のことを大丈夫かなあ、と感じているようだ。
そういうところに、大人の意識を感じるし、やさしさもあるし、
長い時間、彼らと時を重ねて来て良かったと思う。

制作の場にしても、いつの間にか揺るがないものが出来上がっている。

最近、お客さんが入ったり、カメラが入ったりしても、
以前よりは気を遣わなくなった。

スタッフや手伝ってくれる方にしても、
僕はしっかり育てなければ、という意識が強かったが、
最近ではちょっとやそっとのことでは場は壊れない。
作家たち自身が自分のリズムを知っていて、来る人に教えてくれる。
勿論、まだ守らなければならない意識は必要ではあるけれど。

場がここまで熟してくるのには10年かかった。
続けることはやっぱり大切だ。

分からないから、知らないから出来ないとか、怖いと言う人がいる。
でも、分からないとか、知らないという自覚は大切だ。
分かっているとか、知っているという錯覚が油断を生む。
僕も分からないし知らない。

分からないもの、未知のものに適切に触れられるかどうか。
考えて把握してから、分析してから何かしようとすると、実はもう遅い。
分からない時、分からないまま、何か出来なければならない。
自分のものにしろ、とか自分のもにしたということを言うが、
僕は自分のものにしない方が良いと思う。
自分のものにすると弱くなる。
自分のものにしなくても、技や状況は必要な時にやって来てくれる。

分からないと言うことも、自分の範囲にすべてをあてはめようとするからだ。
意味不明に思えることも、本当は意味を持っている。

この前ハルコが「傘たり、つえたりだね」と言った。
これは「雨が降ったり止んだりだね」という意味。
彼女は傘を持って来て、雨が降らなかったときは、杖代わりと言って、
傘を杖のように使う。たりはだったりの略。
それで、雨が降ったり止んだりだから、傘になったり杖になったりする、
と言っているのだけど、これだって前後を知らないで、
最初の言葉だけ聞くと何が何だか分からない。
これは、単純に言葉のことだし、彼女だって「雨が降ったり止んだりするね」、
くらいのことは言えるし、普段は言うのだけど、
たまたま僕だから分かると思っていっただけの話。

でも、これが様々な行動となると、世間の常識では分からないことに対して、
意味不明ととる人は多いし、自閉症の人が怖がられたりもする。
忘れてはならないのは、かさたりつえたりと一緒で、
どんな行為にも何らかの意味があるということだ。

僕の友達の自閉症の人はある時、1人で手をグーにして、少し上から降ろす瞬間に、
人差し指をさっと出す動作を、何度も何度もくり返していた。
時々、真剣な表情になったり、ニコッと笑ったりする。
「なにしてるの」とわざと常識的な質問をすると、
我に返ってこちらを振り向き、「やめてよ。集中してるんだから」と。
これなんか、僕には凄い話だ。
分かる分からないではなく、あの作業が集中を要するということが、
面白くも深くもあって、時々思い出す。
あの世界はしかも多分、彼にしか分からない。
でも、こういうことから僕達はかいま見ることが出来る。
自分達の意味にだけとらわれていると見えない何かがあるということ。
そういう世界に意味がないと言うなら、
僕達の言う意味にもはたして、どれほどの意味があるだろうか。

2012年9月22日土曜日

ダウンズタウンの話

急に涼しくなった。
今日も教室前なのであまり時間はない。
上手く書けるか分からないが、ダウンズタウンの話しの続きをしよう。
三重での話し合いの場ももたれている。
東京のアトリエがあるので、僕はなかなか顔を出せずにいる。
ビジョンとイメージを共有していくことはとても大事だ。

応援してくれる人も、少しづつ増えて来ている。
色んなイメージや考えを持つ人がいる。
どの考えも間違ったものはないと思っている。
みんなの夢と想いが集まって形となっていく。

助け合うことさえ出来ていけば問題はないだろう。
助け合うこと、協力し合うことさえ続けていけば。

本当の意味では、よし子や僕のイメージは、特に身近な人達に
そんなに伝わっていないような気がする。
でも、大きなところではかさなってくるはずだ。
言葉でいくら説明しても伝わるものではないだろう。
それより、何か少しでも環境が良くなっていくことを通して、
具体的に出来上がっていく場の雰囲気の中で、
みんなに伝わっていくのではないかと思う。

具体的に言うのなら、まずは掃除から始まる。
掃除はものだけでなく、意味や価値もどの部分をどこに置くのか、
整理し直すことでもある。
ギャラリーでの展示を考えて、美しい自然環境の中で静かに作品を見ていただく。
より深く作品と出会うことが出来るだろう。
まずは作品と出会うために、三重の環境まで足を運んでもらえるような、
環境と情報発信の仕組みを創っていく。
ゆっくり味わってもらえるようにカフェスペースを創りたい。
少しづつ人の流れと動きが生まれて来るだろう。
それからゲストハウス、という順番になっていくだろう。

遠回りに見えて、これが一番浸透していく方法だと思う。

ダウンズタウンはダウン症の人たちの文化を発信するという、
ほとんど唯一の場所だ。
だから障害うんぬんの問題とは関わりを持たない。
でも、あえて言わなければならない事は、
障害を持っている人達のための環境を作ろうとするほとんどの組織が、
良いものにならない現状がある。
この仕組みをしっかり分析して、違うものを創る必要がある。
例え社会的には成功していても、良い環境になかなかなっていかないのは何故か。
一つは関わる人達の勉強不足だ。
良い場を創るために、私達は日々、センスを磨く必要がある。
ただ、勉強の必要もセンスを磨く必要も感じている人は少ない。
そこがポイントだが、こういった環境の場合、
困っている人、必要としている人が需要していて、身内や業界(のようなもの)
だけで成り立ってしまっているからだ。

保護者の方達が組織している場合も多い。
そうすると、こういうものがどうしても必要というものにならざるをえない。
でも、大切なのは自分達が必要なものという視点ではなく、
他の人達が必要とするものという視点だ。

僕は外の人達、まったく関係を持っていない人達が関心をよせる場、
と言うことを何度も強調して来た。
何故なら、必要とされない場は結局のところ、いつかは無くなってしまう。

目先のこと、自分達だけのことを考えて行くと、
視点が内側に向かって、ちょっとづつ関係のある人だけにしか通用しないものになる。
外の人達は触れてみたとしても、何となく入りづらい雰囲気になっている。

ダウンズタウンは福祉施設ではない。障害を持つ人を養護するだけの場でもない。

彼らの文化を知ろうとする人達。関心をよせる人達。
作品に触れてみたいと思う人達。
積極的にこの文化を学びたいと思う人達。必要とする人達。
そんな人達に対して開かれた場であるべきだ。

そして、東京でこうしてやってきて、
そんな人達がたくさんいると言うことを知っている。
障害を持っている人を助けようではなく、
ダウン症の人達や作品に惹かれ、面白い、もっと知りたい、と思う人が、
ここにたくさん来ているではないか。

外から来た人が、何か居心地良くないなと思ってしまってはおしまいだ。

人に必要とされる場であること。
わざわざ行ってみたいと思うだけの魅力があること。
来た人をがっかりさせないこと
そのためには、みんなが本当のところで何を求めているのかを知らなければならない。

もう一度だけ言うが、こういうプロセスは遠回りに見えるが、
これが本当の部分では、最も彼らのためにもご家族のためにもなる方法だと思っている。

ゲストハウス以降の話しだが、人が集まる場が出来てくれば、
その近くに住みたい、生活したいと思ってくれる人も出てくるはずだ。
周りに人が移り住んできて、より村のようになっていく。
そして、それぞれが自分の出来ることで協力する。

一つ何かが整うと、次に必要な要素が見えてくる。
そうやって丁寧に積み上げていく以外、近道はないと思う。

ダウンズタウンが社会にとっても必要とされるものなら
(僕達はそう思っているが)、それは実現し、無くなることはないだろう。

一人一人が自分の出来ることを通して協力していけば、
可能性はどんどん広がって行く。
誰かだけの力では難しくても、みんなが協力すれば変わって行く。
そして、それが社会にまで浸透した時に始めて、
普遍的な場としてのダウンズタウンとなる。

2012年9月19日水曜日

変わること

ようやく本格的な雨だ。
夏も終わった。もうお彼岸。

確か、今回で今年に入ってから100件目のブログだ。
色々書いて来たけど、何も語れていないような気もする。

アトリエの活動をすすめて、作家たちと向き合っていく日々。
その中から、見えること、感じることをテーマに書いている。
でも、いつも核心には触れないように、あるいは触れ過ぎないようにしてきた。
核心部分ではなく、その周辺や、それに関わることを中心に書いている。
何故か。それも何度か書いたが、みんなに自分で感じて欲しいからだ。
自分で見つけだして欲しいからだ。

僕自身がこの場に何を見るか。何を感じるか。
それを言ってしまっては、一人一人の気づきを方向付けてしまう。

でも、今日はさわりの部分だけでも書いてみよう。
そろそろ、経験を分かち合う時期だと感じるから。

核心を書かないのにはもう一つ理由がある。
当然すぎることだが、書けない、つまりは言葉には出来ないということだ。

体験とは言葉を超えたものだ。

ダウン症の人たちから、学べということを言ってきた。
一体何を学ぶべきなのか。
これまで書いて来たような要素。
平和であったり、豊かさであったり、新鮮さやシンプルさ、
感覚の力、こういったものをいくら考えても核心にはたどりつけないだろう。
本当に大切な事は一つだけだ。
変わること。自分自身が変わることだ。
本当に何かが見えたのなら、もうこれまでのようには見えないだろう。
本当に何かを経験し、知ったのなら、かつての自分は消えてなくなる。
見方や感じ方、認識自体が変化していかなければ、何も経験したことにはならない。

これまで書いて来たような、柔らかな認識の世界は実在している。
私達自身がそのように見えたり、感じられたり出来るようになる。

変わること。自分が変われば世界も変わる。
平和や調和は自分の内面の変化がなければ、見つけることができない。

彼らから何を見つけられるのだろう。
一言でいうなら、人間のこころにあって私達が普段使っていない、
一つの機能を目覚めさせること。
彼らの持っているこころの機能とは、私達にも本来備わっているものだ。

彼らのようにこころを動かしてみれば分かる。
私達がどれほど圧倒的なものに囲まれているのか。
目の前にすべてがありながら、気がつかないでいたのか。

生きることは、もっともっと、どこまでも深いこと。
凄いこと。私達のいる世界は大きく深く、無限のようでも永遠のようでもある。
もっと見えるように、感じられるようになるために、
僕達は日々、変わっていかなければならない。

自分の立っている場所に、目がくらむような無限を感じられるはず。

僕が1人の人の制作と向き合うとき、
その人とこころの深くまで歩く時、
様々な情景をぬけてすすんでいくと、なんにもないけどすべてあるような場所がある。
どこまですすんでも終わりというものがない。
ただひたすら、奥へ奥へと入って行く、そのプロセスだけがある。

いろんな人が教えてくれた。
「もっと見えるようになるよ。もっと感じられるようになるよ。」と。
「もっとすすんでみよう」「もっと行ってみよう」と。

どこまでも終わりのないプロセスがある。
ここがどこだか分からないけど、ここにいると幸せという場所がある。
そこはどこでもない場所で、僕達はただ歩き続けるだけ。

生きること、創ること、響き合うこと。
果てしない繋がりのなかで、見ること、感じていること。

そんな認識の深みを、僕達は知ることが出来る。
耳を澄まし、敏感に感じてみようとさえすれば。

2012年9月18日火曜日

孤独について

前回は時には背伸びする事も必要というようなことを書いた。
だって、今は本当にみんな癒されようとばかりしていて、
生物として不自然だと思う。

先日もテレビで20代の役者が、この歌を聴くと、自分らしくあれば良いんだ、
人の事を気にしなくていいんだと思えて、慰められるという話しをしていた。
正直に言って、僕はそんな考えに浸ったことはない。
自分を慰めたり癒したりしている場合だろうか。

まあ、いいんだけど。
悩むことが出来るのは余裕があるからだと思う。
かつて、同じ現場で働いていた友人が僕に言ったことを思い出す。
佐久間はいいなあと。仕事のことで悩まないし、迷わないし、
自分はここでどうしようと立ち止まってしまったり、身動きがとれなくなる、と。
僕はその発想が不思議で仕方なかった。
僕はいつでも必死でそんな余裕がなかった。
その場、その場に即座に対応していく。
自分のことを考える暇などない。

このままで、自分らしくあれば良いと思ったこともない。
もっと良い状態があるはずだと常に思っている。

アトリエのことも書こう。
プレクラスにはあきこさんという人に来てもらっている。
2人のお子さんがいるので、お迎えの時間まで、いつも2時頃までだけど、
平日は月、火、水曜日、毎日来てくれる。
あきこさんとみんなとの関係も少しづつ出来てきている。

ゆりあが写真の方の仕事に行くことになったので、
次の人達が入るまで、土、日の絵画クラスは僕が1人の日もある。

久しぶりに1人でアトリエを進めていると、色々と勉強になることも多い。
そして、アトリエだけではなく、何かに向き合う時、
1人になること、1人で向かうことはとても大切だと思う。

1人でなければ見えないものは確実にある。
アトリエを見学したいと言ってくる学生にも、友達とは別々においでという時がある。
友達と一緒だといつものものしか見えないからだ。

人といる素晴らしさ、共有できることの大切さも忘れてはならないが、
たった1人で挑むということがどうしても必要だと思う。

たった1人で挑むということは、孤独になること、
孤独を引き受けるということだ。

どんなことでも、何かを真剣に続けていくなら、
深めていくなら、周りにどれだけ人が居ようとも、孤独になるだろう。
その孤独には途轍もない価値がある。
孤独にならなければ真実に近付くことは出来ない。

あの3•11の後、僕はアトリエを再開するために準備していたが、
僕1人では難しかったので、学生のイサとの共同生活を開始した。
彼の協力があってあの時、アトリエをすすめることが出来た。
そんなこともあって震災の後、僕は色んな人と一緒にいた。
三重までよし子とまだお腹にいたゆうたに会いに行って、
今後のことを話し合った。
三重まで一緒に行ったイサと、合流したゆりあと3人で東京に帰って来て、
駅で解散して家に帰った時、僕は本当の意味ではじめて震災を知った。
街は真っ暗で人もほとんどいなかった。
たった1人で夜の街を歩いた。
すべてが終わってしまったのだということを実感した。
正直に言うと寂しかった。
でも、この寂しさを全身で味わわなければ、と思っていた。
良いものも悪いものも、誤摩化してはいけない。
真実を知らなければならない。実感しなければならない。
そのためには孤独になることが必要だ。

前にも書いた。
たった1人で無限に向かっていく時の感覚を。
鳥肌が立つような感動と畏怖の感情。
世界の大きさと人間のこころの不思議。
本当のことを知るために、見るために、僕達はいったん孤独になるけれど、
その孤独は圧倒的に素晴らしい体験を与えてくれる。
恐れて逃げているのは勿体ない。

2012年9月16日日曜日

背伸びすること

鈴虫の声っていいなあと思う。
暑いけどもう秋だ。
よし子と悠太はちょっと疲れ気味で、体調もあまり良くない。

ダウンズタウンに向けて少しづつ下準備を初めている。
まずは土壌をどう整えていくか。

昨日は土曜日クラス。午後のクラスは人数が増えて、もういっぱい。
でも、みんなとても楽しそう。
佐藤よし子がラジオ出演の際、大変お世話になった作家の高橋源一郎さんが、
アトリエまでおこし下さった。
午前のクラスからご見学で、午後も、一日アトリエで過ごしていただいた。
雑誌の連載で取り上げていただくそうです。

色々とお話しして楽しい一日だった。
本当に良い方だ。
こうしてアトリエやダウン症の人たちを応援して下さる方が増えていく。

学生チームのみんなが卒業してしあばらく経つが、
また現役の学生達が少しづつ、アトリエに集まって来ている。

学生達と付き合っていくのは、作家たちと向き合うことと、
また少し違っていて面白い。
わざわざ言うまでもないが、僕達の関係はほぼ同列だ。

人として何が必要なのか、直感を持っている人がここに来るのだと思う。
みんな周囲の環境に配慮出来る繊細さは充分に持っている。
それは本当に大切な事なのだけど、
僕の考えでは10代20代は、やりすぎるぐらいの勢いがあっていい。
というか必要なのでは無いだろうか。
社会人でも、気負わないとか、自然派みたいなことが流行っているけど、
大事なのはメリハリだと思う。

あくまで例えばだけど、女性でお化粧しませんとかハイヒールは身体に悪いとか、
いろいろあるが、身体に負担をかけたり、緊張感を与えることが、
一概に悪いことだとは言えない。
気合いを入れると言うことが、実は大事なときがある。

これも、一般論では言えないけど僕の場合、
風邪をひいた時にあえて寒い場所に行ってコーヒーを飲んで直す事がある。

身体に悪いことを全部取り除けば健康になるとは限らない。
緊張感によって生命力が強くなることもある。

何を言いたいかというと、絶えず礼儀正しく、謙虚に、
身の丈に合ったことだけしていては成長しないということだ。
いつも無理しないでいては何も変わらない。

時に身の丈に合わないことをする。無理する。
背伸びする。自然じゃないことをする。緊張する。

人はどんな時も適合していこうとするものだから、
背伸びすれば、少しづつ大きくなれる。
場にそぐわないと感じれば、その場に相応しい人間になろうと努力する。

良い、悪いも大事だけど、それ以上に勢いが重要だ。
例え悪くても勢いがあるなら、方向を変えれば良いものになる。

前にも書いたかも知れないけど、
僕は調子に乗っている人が居ても、邪魔しないようにする。
確かにエネルギーが間違った方向に行っているのだろうが、
勢いがあるのだから、その勢いを否定してはいけない。
無理なことをしようとする人を止める事もない。
逆に勢いが弱い人を押してあげる事の方が大切だ。
勢いがありすぎて、調子に乗っていたり、無理したりしても、
そのうち、セーブがきくようになってくる。
生命力は否定してはならないものだ。

これは誰かに聞いた話で、確認出来ていないので本当かは分からないが、
こういう事がある。
花伝書で有名な言葉、「しょしんわするべからず」というのは、
一般には出来るようになったからと言っておごってはならない、
初めての時のように一生懸命やりなさいという意味で解釈されている。
でも、この意味は実は逆だという。
初めて踊ったときは無心で、簡単でただ気持ちよく舞っていた。
その時のような気持を忘れてはならないと言うことだと。
これは本当だなあと思う。
私達は何事も経験を積んでいく事で難しくしていっているのではないだろうか。

僕達のアトリエの作家たちはまさしく、いつでも初心だ。
初めて絵を描くように、いつでも描くことが出来る。
だから、彼らには無理や背伸びは必要ないし、
させないように周りが配慮する必要がある。
(彼らの場合は無理させる事は性質として危険な事だ)

で、結局背伸びする事が良い事か、悪い事かだけど、
まあ、本当のところは無理や背伸びは良くないだろう。
でも、僕達のような凡人には時には必要なのではないだろうか。

2012年9月9日日曜日

昨日

制作は充実している。
みんな、とても良い表情で描き、話し、笑っている。

昨日は東洋英和の学生さんが見学。
とても素直で熱心に学ぶ姿勢を持っている。
後でもらったメールを読むと、しっかり見て、考えて、受け止めてくれているな、
と感じる。
この場に来たことが人生で意味を持ってくれると嬉しい。

学ぼうとする人はなるべく受け入れたい。
彼ら、彼女らが社会に出た時、その意味が大きくなる。

志ある人を育てることにこそ意味がある。

1人でも多くの人に知ってほしい。感じて欲しい。

ダウン症の人たちの本当の世界の素晴らしさ。
実際に見聞きしている人や、身近で知っている人にも伝えたい。
もっともっと奥があるということを。

彼らが何を見ているのか、どんな風に感じているのか。
場に入ることは、僕にとっては彼らと同化することに近い。

作品をよく見て欲しい。
こんな絵が日々生まれる場はそうそう存在しないはずだ。

作品を通して世界と触れる。場を通じて世界とつながる。
今まで生きて来た世界の見え方が変わってくる。

ここにいること。誰かといること。
目の前にあるすべて。
奇跡のように豊な世界にいることに気がつく。
空もどこまでも深い。海もどこまでもどこまでも深い。
深い深い場所に僕らはいる。みんなはいる。

彼らから見えてくるのは、僕達の内面にある、世界とのつながり。

そんな認識に立った時、私達はもっとやさしく人と関われるだろう。
もっとすべてを大切に出来るだろう。
もっと平和に、協力し合える方法を模索し始めるだろう。

そのためのきっかけとなる場を創っていきたい。

2012年9月8日土曜日

耕すこと

暑さはまだまだ残っているけど、秋らしい気配がする。
季節はどこで感じるのだろう。
今の場合は多分、音と空気だろう。虫の声が変わる。空気が乾いてくる。

僕が小さな頃は金沢は夏も冬も強い湿気だった。
湿度が高いと暑さも寒さも、しつこく身にしみる。
今では金沢も乾燥している。土地特有の風土というものも変わって行く。

ダウンズタウンのことを少しだけ書く。
僕達は未来を見据えている。変わるべき時代の流れを感じている。
今の在り方が終わるまで、何となく流されていく人が多分、おおいだろう。
でも、僕達は始める。
大袈裟に大きなことを始めるのではなく、人知れず土の上を耕し始める。
気が付いた人、同じ思いを持つ人は、一緒に耕そう。
いつかその土壌が未来の地盤となる。

生き方、つながり方、幸せや価値観。
ダウンズタウンは、未来はこんな風な生き方が良いのじゃないの、
という見本になれたらいい。
人間はこんな風にも生きられるよ、ということを関わる人達で証明したい。

ダウン症の人達の感性の在り方から、メッセージをキャッチしてきた。
これを読み解く作業と同時に、共に創っていく必要がある。

何度も書いて来たが、大切なのは感じること。
今起きていることや、これから起きようとすることを。
今、僕達がおかれている状況を。
深く感じること。感じたままに動くこと。

例えば、自然界では毒があると、その近くに解毒する草があったりする。

その場にある問題の答えはその場にある。

僕達は何も持っていないが、何も出来ない訳ではない。

人のこころと向き合う場がそれを証明している。
答えはその人が持っていて、その人にしかない。
僕達は一緒に答えを見つけて来た。
何も知らなくても、何も持たなくても答えは見つけだすことが出来た。

東京のアトリエを考えても、よし子とたった2人で、生徒だけを見ていた時期がある。
目の前にいる人にひたすら向き合えば何か見えてくるはずと。

今ではたくさんの人がこの場を訪れるし、応援してくれる人や、
手伝ってくれる人。深い共感をよせてくれる人がたくさんいる。
たった2人だった時に、この状況が予想出来ただろうか。

すべての人には、その場を良くしていく力がある。
感じることと信じることさえやめなければ。

僕達はよりたくさんの仲間と、もう一度耕し始める。
10年後、確実に何かが変わっているだろう。

いろんなことを考えてないで、恐れていないで、待っていないで始めよう。
耕し続けることに答えがあるだろう。

2012年9月5日水曜日

家族のような場

暑さも少し穏やかになってきた。
秋の気配だ。

平日のクラスも始まっています。
早速、お客様をむかえて、みんなで元気に過ごしています。

僕は朝も悠太との時間をもってからアトリエに来ることにしたので、
なかなかブログを書く時間がない。
色々書くことはあるのだけど、よし子と悠太としばらく離れなければならないので、
冬まではこのペースで行かせていただこうと思っている。

そして、平日のクラスはなるべく悠太もアトリエに来るようにしている。
今はとても良い雰囲気だけど、このクラスがこんなに家族的になるなんて。

メンバーもお客さんや悠太と仲良く過ごしている。

制作に集中するクラスもいいけど、こんなクラスも大切だ。

ダウンズタウンは、こんな風に外に開かれた場にして行きたい。
どんな人が来ても、くつろげて、大切な何かを感じられて、
家族のようにつながる場所にしたい。

「場」が要求することというのが確実にある。
今、その要求はより、ゆったりと穏やかな空気感を創る方向へ行っている。
お客さんも手伝ってくれる人達も、みんな、自由にのびのびと過ごして欲しい。
「こうあるべき」「こうであってはならない」
という場に対しての思いは、必要な時期もあったけれど、
今はそこを離れていくことを場が求めている。
より自然に、より良い場になっていくだろう。

2012年9月1日土曜日

現場がすべて

さてさて、先月はブログの更新が少なかったのでまた頑張ります。
この夏、色々すすめて来たことについては、またの機会にご報告します。

今日から教室が始まる。
夏の間は別の仕事をしていたが、
やっぱりスタッフにとって現場がメインの仕事だ。

ダウンズタウンについて何度か書いたし、よし子も書いているようだ。
そこで、今回は久しぶりに日々の制作の場、現場のことを書く。

現在、東京のアトリエはボランティアスタッフを募集しているが、
これは将来に向けて重要な意味を持っている。
すでに数名の方が手をあげてくれている。

勿論、アトリエ内での人材不足を解消したいという部分もあるのだが、
そんな事は小さなことにすぎない。
大切なのはこの場からたくさんの良い人間が育っていくことだ。

場の中で学ぶ、イベントや様々な作業を共にすることで学ぶ、
作家たちから、それからスタッフ同士で学び合う。
それには支え合う仲間たちが必要だ。
何度か書いて来たことだが、
今後は関わってくれる人達を増やしていくことが大切だと思っている。
その中に何人かは一生を通じて彼らと生きていこうと思う人が出てくるだろう。
でも、みんながそうでなくても良い。
様々な立場で、それぞれが自分なりの関わり方を見つけていければ良い。

なかでも「場」から学べることは本当に多い。
だからこの経験は多くの人にしてもらいたい。
これから、学校関連にも募集してみようと思っている。
研修制度みたいな形も出来るといい。
将来、人や人の心と関わる仕事を志す人は、
この場から学べることがたくさんあるとおもう。
それ以外の人にとっても生きていく上で、人間の元を創る経験になるだろう。

場に魅力があれば、想いを寄せる人が集まる。
想いを寄せる人が集まれば、可能性が広がる。

まず、良い場を創ること。
良い場、魅力のある場とは何だろうか。
多くの人達が、このアトリエの場に何かを感じて下さる。

場の魅力の80%までが、作家たちが本来的に持っている力による。
残りの20%はスタッフの能力にかかっていると言える。
ここまではっきり言ったことはないのだが、今後、伝えていくためにあえて書く。
この20%は本当に大きいと言うことは、責任として自覚しなければならない。

スタッフの仕事とは何か。
作家たち本来の性質を正確に見極め、それぞれが自分本来のリズムをつかめるように、
相手と呼吸を合わせ、その上で集まるみんなや場全体の雰囲気を創ること。
簡単なようで難しい。難しいようで簡単。

場に入る時の自分のコンディションで、周りの雰囲気はがらっと変わる。

良い状態をキープするというよりは、良い状態を創り続ける。
それが一番のキモと言える。

例えば、オリンピックもあったし、またしばらくスポーツを見たが、
スポーツ選手の場合であれば、一番良い時の成績で評価される。
調子が悪ければ、今はあんまり良くないですね、と、
あくまで良い時の基準で見られている。
だから、ある時、良い成績や記録を残せば良い。
つまり、調子が良いときと悪い時があっても良い。

でも、これが人のこころを相手にしている現場であれば、話は違ってくる。

僕達、現場のスタッフは良い時と悪い時があってはならない。
何故ならその一回がすべてだからだ。過去に良かった時期があっても、
そんなものは今の目の前にあるこころにはなんの効果もない。
絶えず、今の状況がすべてだ。

でも、ここが面白さだと言える。

僕自身はこんな状況に身をおくことが好きだ。
自分が鍛えられていくから。
もう10年ももっともとをたどれば、
20年近くもこんな時間を過ごして来たのだから。
そして、その中からたくさんのものを貰って来たのだから。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。