2012年1月28日土曜日

あるべき場所

寒いですね。
アトリエも部屋を暖めるのに一時間くらいかかるようになりました。
冷えると身体もこころも動きが固くなります。
今日も内面的にもあたたかい場を心掛けます。

さて、前回は雪のことを少し書いたけど、あくまで東京での話。
ちょっと反応がオーバーだな、と思って。
雪は化け物じゃないし、自然はいつでも予測不能のものとして、
私達の目の前にあり続ける。
でも、日本海側は本当に豪雪になってしまった。
北の雪がどれほど過酷かは、僕自身二十歳まで、北陸や信州にいたので、
身にしみて分かっているつもりだ。
雪で命を落としそうになった人を、ギリギリのところで救助したこともある。
雪は怖い。
でも、必ず春は来る。

ところで、「ものにはあるべき場所がある」「人には居るべき場所がある」
ということを、あまり自覚しないで生きている人が多い。
私達の生活を少しでも豊かにするためには、このことをしっかり自覚した方がいい。

あるべき場所があると言うことは、逆に言うとあってはならない、
あるべきではない場所もあると言うことだ。
物だけではなく、人にも出来事にも、あるべき場所、
ふさわしい、適切な場所というのがある。
それが、適切でない場所にあると、本来持つ力が発揮出来ないどころか、
かえっていろんなことに悪影響を及ぼす。
以前、人間は快、不快でできていると書いた。
快を感じる力がいかに大切かに触れたのだが、
もう一歩踏み込むと、不快を感じることも大切だ。
つまり不快を感じるからこそ、悪い物を避けられる。
だからここでも、あるべきでない場所に敏感でありたい。

この前、イサと話していたら、彼が「アトリエでかかっている音楽がいいから、聴きたいと思って買ってみたら、家で聴くとぜんぜん良くない」
という様なことを言っていた。おっ、それが感じられるようになったなと思った。

そういうことは良くある。
良い音楽だったら、どこで聴いても美しいと思うのは、
実は凄く情報社会の影響を受けている。情報は場所によって変化しない。
私達は知らず知らずの内に、何事も情報として捉えてしまっている。

以前も書いたが、美術館に仏像が展示されても美しくはない。
居るべき場所に居なければ、そのものの力は無くなってしまう。

物事にはふさわしい時期と場所がある。
仕事や日常生活の中でも、そのことはとても大切だ。

ダウン症の人たちの作品についても、
どこに置かれるべきか、どこに行ってはいけないのか、見極めなければならない。
お断りする企画も多いが、決してこちらに悪意は無い。
ただ、時期と場所がそこではないということだ。

この様な微細な違いに鈍感な人も結構いる。
どこにでも持って行って、どこででも何かをすればいいと考える人も多い。
でも、その様な発想はあさはかという以上に危険ですらある。
世の中の悪い物は大体、置かれるべき時期や場所を間違ったためにある。

特に好意で誘っていただいた場合、お仕事でもお断りしなければならないのは、
こちらもきつい。出来ることなら、お受けしたい。
気難しいとか、偉そうとか、お高く止まっているとか、
プライドが高いと勘違いされることもあるが、
少なくとも仕事に関して個人的感情の入る余地はない。
ただ、いっていの敬意を抱けない人と仕事することは危険だ。
アトリエや僕に対しての敬意では勿論無い。
作品やその背景に対する敬意だ。つまりは人間のこころに対しての敬意。

お断りしなければならない事や、
注意事項、条件等、アトリエとして相手に要求する部分は確かに多い。
でも、それはお互いにとって良いものを作る為、良い関係を築くためだ。

だから、ある意味で作品や人や名前を動かさないで、
僕自身の頭と言葉だけ持って行けばいいという、講演や会合のお仕事は、
気を遣わないし楽だ。
何も持たずに話しにいくと、
いつもより穏やかでですね、とかやわらかくなりましたねと言われる。
本当は何も変わっていない。ただ、守る必要がないだけ。

さっきの音楽だけではなく、アトリエにある道具や物は、
すべてここに持ち込んでもいいと判断した物だ。
そうじゃない物はしばらく置いてあって、ここにあるべきじゃないとなって、
違う場所に行く。
そういう感覚はとても大切だ。
言っては悪いが、病院や保育所の美意識の低さは考えものだ。
あのような雑な感覚で、人のこころが育ったり、癒されたりするだろうか。

例えば一流の店や仕事と、そうでないものの違いは、
あるべき場所にあるべき物があると言うことだ。
もう一つ、あってはならない物が無い。違和感のあるものが無いということ。

あることが、ないことより良いと思うのは間違いだ。
仕事でもやってはいけない仕事はあるし、
物でもなくてもいい物は、実は無い方がいいと言うことだ。

人でも、ここにいるより、あっちにいる方がふさわしいとか、
適切な場所と状況がある。
そのものや人の本来の姿を見極めて、
ふさわしい環境に配置する。
あるべきでない場所と感じたら移動する。

ちょっと変な話かも知れないけど、
僕も昔「あなたはもうここに居るべきじゃないよ」と言われた事がある。
その言葉は僕にとって大切なきっかけとなった。
その人は女性だったけど、昔はそんなことを言ってくれる人が居た。

あの○○が東京にとか、名店の味が自宅でとか、
良くあるけど、背景から切り離されたそのものはいったいなんなんだろう。
その場を離れて、そのものがあるとは考えられない。

これも変な話だけど、どこかの島に行くと魔術師がいて、
雨を降らせたり、人に呪いをかけて動けなくさせたりすると言う。
迷信だという人が多いだろうが、そこへいくと本当にそういう事がある。
僕は迷信ではなく本当だと思う。
だけどその魔術師とかいう人が、東京に出て来て同じ事が出来るかと言ったら、
多分出来ない。そこを離れた瞬間に彼の能力は発揮出来ない。

そういうことだと思う。

それはともかく、本来はすべての物事には価値があって、
すべての人間には役割があると思う。
もし、その様に見えないときがあったら、それはふさわしい、
あるべき場所に無いからだと思う。

だからあるべき物はあるべき場所に置かれるべきだ。
ここはちょっと違う、あっちにあった方がいいとか、
この人はあの環境の方が力が出せるとか、
そういう感覚はとても大切だ。

あるべき場所を見つけ、あるべき場所に置こう。
あるべき場所に行こう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。