2012年1月16日月曜日

「動き」に順応する

寒い中でもみんな体調もくずさず制作に励んでいる。
最近はアトリエでの取材、撮影も多い。
撮影される方がそれぞれ配慮して下さるので、お受けすることが出来ている。
良いかたちですすめられれば、プラスになるのだからご理解さえいただければ、
何も問題はない。
でも、分かって下さる方が多くなって来たなあと思う。
少し前までは、「人が入ると場が変わる」「制作は微細な変化が重要」
という様なことは、お話ししてもフーンとは思ってもピンと来る人は少なかった。
よくよく考えてみると、私達のやっている様な事はかわっているのかも知れない。
ほとんどの人はなんの事なのかサッパリ分からない、ということかも知れない。
隣に座った人がどんな気持ちでいるかによって、
相手の気持ちも表現も変わる。
いい表現が出て来たので、深くみつめると、2人の間で密度が高まって、
より良い表現へと進んでいく。
今は動いてはいけないと感じたり、
今は少し場をやわらかくしなければ、と感じたり。
お喋りするときもあれば、静かにしようと言う時もある。
スタッフがどんな判断にもとずいて動いているのか。
作家のこころにどんな動きが現れているのか。
作家が表情を変えずともどれだけ多くの事物と対話しているのか。
普通の人がただ見ただけでは分からないだろう。
でも、例えば現場では実際に僕が座る場所を変えただけで、
表現にぐんと動きが出たり、迷っている人に笑いかけただけで、
迷いが消えたり、ただ隣に座っただけで作家の目付きが変わったり、
といったことは日常だ。
学生達にしても何度も何度もそういう場面を目にして来た。
私たちにとっては、こころの世界の微細な動きは明晰に見えるものだ。

前回、人が吸収する時間について書いた。
それも、こうしてこころの動きを観察して来た結果分かったことの一つ。
人のこころは長い時間の中で蓄積されていくもの。
勿論、その瞬間に起きたいいもの、悪いものが全く影響しないということではなく、
短い時間で経験したものと、長い時間かけて浸透して来たものとでは、
影響の強さが違うということだ。
言い忘れたけど、どこかで医療関係の専門家が言っていたことなのだが、
夏のエアコンの害について。夏でも身体を冷やしてはいけないという、
よくある話だったけど、その理由が面白い。
つまり夏場の暑さは熱として身体に温存されている。
それを寒い冬に少しづつ外へ出していくのだそうだ。
だから、夏の熱が残っていれば風邪もひきにくい。
勿論、それ以上に身体に熱を残し、冬に出していくということには、
もっともっと色んな意味と仕組みがあるはずだ。
身体もこころも同じだ。
夏の暑い時に人は、その暑さと身体の関係や意味を考えはしない。
身体は環境に順応していくが、頭はそれが出来ない。
何事も短いスパンでものを見ることの害は大きい。
現代社会はものを見るまなざしが極端に短距離的だ。
短いところで、みんな必死になって何も見えなくなってしまう。
もっとゆったりと全体を見る視野が必要だ。

さて、先ほどのこころの動きにも関係するが、「動き」は特に重要だ。
この世界は動いているということは、みんな知っているはずだけど、
実は知ったつもりになっているだけかも知れない。
人間は「動き」「動くもの」に弱い。
すべてを一度止めてから理解しようとする。
と言うか、そもそも理解とは動きを停止しないと出来ない。
だから理解してから何かをするというのは、決定的な弱点でもある。

社会の問題も、私達の個人的な問題も、「動き」に順応出来ないところから来る。
私達のアトリエにも学校や養護学校の先生が来る事があるが、
その方達と話していて感じるのは、人のこころを「動き」として見ていない、
ということだ。「動き」が見えないから、どうしようかと迷う。
良く聞く話に良くなったのに悪くなったとか、
ここまで伸びたのに戻ったとか、これがダメだったからこうしてみたとか。
教育は人のこころを直線で見てしまう。
真っすぐ前に進むだけだと。
成長は直線ではない、行きつ戻りつ、波や螺旋のようなものだ。
こころは絶えず動いている。あの時、ああだったとか、昔は良かったとか、
そんな事を思っても何の意味もない。
今動いているこころを見てあわせていく。
悩んだり迷ったりというのはその状態がずっと続くと思ってしまっているから。
すべては動きの中にある。すべては絶えず変化していく。
そこに順応出来るかがすべて。

何度か僕も彼らの深い世界とか、深いことを良いことのように書いて来た。
でも、それはあくまでその時による。
僕も絶えず、深いレベルばかり見る訳ではない。
その人がもっと浅い日常的なことがこころにあるのに、
自分だけ深いものを相手にしても、共感はおきない。
目の前にある動きが大事なのだ。
時には浅いものの方が大事にもなる。
そこが理想主義や宗教や思想と違うところだ。
例えどんなにレベルが低かろうが、それが人の心から出て来ているなら、
とことん付き合っていくことが大事だ。

人間には静止した状態でものを捉えようとする癖がある。
たしか養老さんの本にそんな様な言葉があった。本当にそうだ。
頭は動きを掴むことができない。世界は動きそのものなのに。
だから、考えることを基本としている「文明」は必然的に危機に向かっていく。

僕の前には制作に向かおうとする人がいる。
今、ここに。もうこころは動いている。一瞬も止まらない。
理解してから、分かってから何かしようとしたら、もうついていけない。
分からない、理解不能な無限に向かって飛び込んでいって、
流れを感じ取りながら、順応していく。
制作に向かう作家も当然同じだ。
彼らも頭で、こんな絵にしようとか、こんな色を重ねようと考えてはいない。
頭ではあんな絵は描けない。
彼らは目の前の紙と色にまず、入って行って、そこでどうすれば気持ちよくなれるのか、
直感でつかんで、無限と戯れる。
本当は生命体はそうやって生きるものだ。

このブログでも調和とかバランスとか書いて来たが、
そういったものも静止したものではない。
調和もバランスも絶えず、崩れ、もう一度生み出される。
絶えず創り続けられる行為だ。
質を保つとか、現場のレベルを同じようにするというのもそう。
同じ質やレベルを保とうとしたら、同じようには出来ない。
何故なら条件は絶えず変化しているから。
だから質を保つとは、その質を創り続けるということ。
調和も創り続けるものだ。

分からない、理解出来ないものに適切に対応出来るということが大事だ。
頭は理解してからしか判断出来ない。
頭は動きを捉えることが出来ない。
では、どうやって理解出来ないものに適切に対応し、
動きに順応していけばいいのか。
頭以外を使う。つまり感覚を使うことだ。
現代人は感覚を使うことが苦手だ。
ここでもダウン症の人たちの制作に向かう感覚を見習う必要がある。

感覚と言っても目や耳、いわゆる五感を部分的に使うだけではダメだ。
かといって第六感みたいなことでもない。
例えば共感覚というのがあるらしい。
それを持つ人は音に色が見えたり、色に音が聞こえたりするという。
これは何を意味しているのか、つまり感覚とはもともと一つだということだ。
ダウン症の人たちを見ていると、この共感覚ともまた違う、
ある意味、全感覚、全身感覚とでも呼べる様な、感覚がある。
すべての感覚が解放されているということが必要だ。
だから、理想はもうこういう呼び方はしてはいけないのだろうが、
土人とか野人のような感覚ということ。
そういう、感覚を取り戻すことが我々に必要なのだろう。
断っておくが、何も狩猟する感覚を取り戻すとか、
原野で原始的生活をする能力を取り戻すと言うことではない。
もっと、内在的な意味で全体、全身で生きようということだ。
原始といったのは、おそらく原住民の様な人達は、
感覚が単純に出来ているはずだからだ。
感覚を単純にすれば、それは力強く動く。
単純なものより複雑なものの方が高等だと思ってはいけない。
僕は逆だと思っている。

単純でシンプルな存在になって、力強く全感覚を働かせれば、
うまく「動き」に順応していける。
それが、困難な時代を生きるヒントともなるのではないだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。