2015年6月20日土曜日

見たことも聞いたこともない場所で

朝はとても良い光と風。

今日は何処まで行けるだろうか。

月曜日からまた三重に行きます。
しばらく制作の場を離れるので、この土、日の2日間を大切にしたい。

月日の経つのは早いものだ。

僕達は気がつくと、
どこか途轍もなく遠いところまで来てしまっているのかも知れない。

新幹線が開通してかまだ金沢へ行っていない。
数年前からいくつかの場所が消えた。
金沢も変わった。

これも数年前だったか、何処かへ向かう途中で滋賀県のある駅を通った。
しばらく居たことのあった場所だけど面影は無かった。

震災直後に行った神戸の街。

それにそれぞれの土地にある小さな店。

消えて行った多くのもの。

いつでも思い出は美しい。それは実際の事実とは違う幻想なのだろうか。
それにしても幻想の方が強いリアリティをもってしまうのは何故か。

例えば、昔見てこころに残っている映画をもう一度見る。
その作品は全く違うものにさえ思える時がある。

あったはずのものが無い。
あったはずの場面や情景。

映画でも小説でも音楽でも、こういうことがよくある。
そして僕達の人生の経験の中にも。

錯覚だと思えばそれで終わり。だから終わりにしていることは多いだろう。

でも僕はそんな経験こそが本当に近いものだと思う。

いつでも深い体験は原風景に触れてしまうのだと。
僕達はこころの奥に普遍的な世界を持っていて、
それは見えるものでも聴こえるものでもなく、匂いも形も無い。
それぞれの人生や経験はそこへ触れるための手がかりなのだと思う。
固有のものをを通してしか普遍へは至れない。

どこかに残された記憶が、何かのきっかけで甦ってくる。
生きているということは高度な推理小説を読むようなものかも知れない。

制作の場に立っていると、それぞれが持って来る風景や、
大胆にあるいはそっと出して来る数々のパーツがある。
その人自身にも未整理で何故今それを出してしまったのかすら分からない。
コントロールのきかないものの方が深い部分に関わるものだから。
一つ一つを拾って行くと、やっぱりその人の中で欠かせない何かなのだと分かるし、
無数の断片が深い部分や浅い部分に重なって、
その人を存在させ、動かしている掛け替えのないものなのだと感じる。

最後に見えて来るものは一つだ。
でもそれは言葉には出来ない。
そしてそれはそのものとして触れることは出来ない。
それぞれが自分だけの感覚と経験を通してそこへ至る。

だから全く私的な体験が他の人のこころの深いところへ届くことがある。

本当の意味で人と響き合おうとするなら、
たった一人になる勇気と、裸になって開いていく覚悟が必要だ。
それが出来た時、あ、それ見たことあるよ、一緒だね、という場所に行ける。

美しいもの儚く悲しいもの、沢山の景色。
僕らは恐れることなく、その一つ一つを味わいながら、
手をつないで歩いて行く。
全部見て行く。逃げないで。
そしてようやく、みんなが繋がる場所にたどりつく。
そこには何も無いがこれまで見た全てがある。
僕達はみんなで顔を見合わせる。微笑み合う。
もう何も言う必要はない。

これが共感というものの本質だ。

やっと思い出す。ここは初めて来た場所なのに本当はずっとここに居たのだと。
大丈夫。みんなここに居るよ。
色んなことがあったけど、もう全てが必要だったと気がつく。
良かったね。誰も何も欠けていないよ。もう安心だね。
みんな大好きだよ。みんな一緒だね。

工程を省略してそこへ行くことは出来ない。
だからどんなことでも受け止めて、精一杯生きて行くしかない。
向き合うしかない。

ややメルヘンチックに例えたが、制作の場とはこのようなプロセスだ。
だからこそ、場は人生だと言い切れる。

もっと上手く書ける日が来るかも知れない。
今日はこんなところで。

さて本番の現場です。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。