2015年6月18日木曜日

意識していないもの

今日はもっと降るのかと思っていたが、この時間でもまだ静かだ。
何日か打ち合わせが続いていた。

志の高い方達と繋がっている。

夏にはフラボアでデザインされた商品と共に原画の展示も行われる。
また新たな希望に繋がる企画となるだろう。
詳細が決まりましたらお伝えしますね。

他の企画もいくつか同時に進行中です。

それから少し先になりますが今年も外で少しお話します。
こちらも日にちが決まり次第、お知らせします。

夏は研修の方を受け入れる。

様々な現場から学びたいとやって来る方が多い。

僕達のすべきことは変わらない。

自分の子供も含めて、子供達を見ていてもそうだけれど、
育児にしても教育にしても、もっと言うなら生きること全般がそうだけど、
人の表面、上っ面を見ていても駄目だ。
自分を見る時でもそれは言えること。

人間はいつからこんなに生命力を失ってしまったのか。
外の基準に頼らずに、自分の感覚を使って把握する力。
今起きている問題のほとんどは本能の力を失ったところから来ている。

人を見る立場に居る方達は本気で考えるべきだ。
特に教育に関わる方は。

人間の基礎を作らずに知識やテクニックを上から塗っても、
そんなものはメッキに過ぎない。
すぐに剥がれるし、むき出しになった芯は最初から作られていないから、
簡単に壊れてしまう。

まずは大人が何を大切にするのか見直すべきだ。
表面ばかり見ていて、元の部分を見ないなら、
その見方は子供の注意力を方向付ける。
表面しか見ようとしない人間が増えているのはそのせいだ。
表面しか見ないということは、お金や権力や成績や、
そういった数字になるものでしかものが見えなくなるということだ。
そうなれば世界は損得しかないということになり、
自分のことしか考えない人になる。
人を大切にするということを口にはするけれど、
ほとんどの人は家族や友達やもっと言うなら自分の分身か、
自分に利益のある人のことしか考えていない。

こういう認識は周りを見て身に付いてくるものだ。

人を見る時、大人であれ、子供であれ、その人の芯を見るべきだ。

何がその人を動かしているのか、背景に何があるのか。

制作を見守るときでも色や線を追っていても何も見えはしない。
絵をいくら見ていても、その絵を生み出しているこころが見えなければ、
創造性の輝きはくすんでいく。

意識しているようなことはその人間の10%にも充たない。
自分にも他人にも同じように、意識していない部分を見て行く必要がある。

どんなに絶望している人の中にも、
まだこんなのもある、と言うものは必ず見つかる。

若いうちに良い経験を積むことは、
それらを覚えて蓄積して行くためではない。
逆に無意識の部分、自覚されない部分をしっかりと満たして行くためだ。

沢山本を読みなさいと、教えられる。
でも沢山読むのは何のためか。
ここでも知識を集めるためではない。
元となる感覚や芯をつくって行くことが大切。

だから良いものに沢山触れて、全部忘れて行って良い。
そして人に良い影響を残したいのであれば、
その人の表面に触れるのではなく、背後で動かしている部分に語りかける。

僕らが制作の場で見ているのはお互いの素の部分。
表面で意識されているものの奥にある働き。
言い換えれば魂と言っても良い。

覚えて行く部分より忘れて行く部分により良い働きかけが必要だ。

誤摩化したり取り繕ったり、という卑しい振る舞いが何故生まれるのか、
といったら人も自分の表面だけしか見ないからだ。
逆に芯だけ見ているのであれば、誤摩化し自体が不可能となる。

大人でも子供でも愛情が栄養になっている。
愛していると伝えてはいても、それは上っ面を褒め合っているだけ。
それではいつまでも伝わりはしない。
その人を愛するということはその人の表面を見たところで駄目だ。
その人の自覚されない奥の奥まで見て、その部分に愛情を注ぐ必要がある。
そうでなければ、ただ自分が好きなだけだ。

もっと意識されない部分や分からない部分を大切にすること。
この世界に対しても人同士に対しても、
お互いがもっともっと神秘で、そして深いものであることを認識しよう。

見えているものより、見えていないものが、
意識しているものより、意識しないものが、より本質で大切であるということだ。

そんな自覚を持って人と接して行くと見えて来るものが沢山あるはず。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。