昨日は深夜まで曇りで、遅くなって来てから雨が降り出した。
それまで風の変化が何層にも。
空気が変わる場面もあった。夜は感覚が敏感になる。
言葉は悪いが雑用のような仕事が沢山あって、
これだけで時間が過ぎてしまいたくないなあ、と感じていた。
そんな中、ちょっと本気になれそうなお仕事の依頼も入って来ている。
制作の場の質を外で、と言うのは難しいことだ。
場から学んで来たことを書いたり、しゃべったりしている。
場には表面的な美しさや素晴らしさが、無論ある。
それは初めて見た人でも感じられるものだ。
誰に対しても開かれていると言える。
ただ、もっと奥があって、それはもう見ても良いよ、という許しを貰わなければ、
見ることが出来ないようなものだ。
よし、そろそろいいよ、と場が言ってくれて、見せてもらえる。
ここに立ってごらん、ここからほら、見てみな、と。
そうやって認識も知覚も生き方も、生きる世界も変わって行く。
今、自分が見ている世界とは、それがどんなものであれ、
場が見せてくれているものだと僕は感じている。
ずいぶん、遠くまで来てしまったという自覚もある。
ある意味で確かなものはもう何処にもない。
全ては無限のように変化の過程にある。
場が連れ来てくれた場所から、自分の人生を見るという視線が自然に身に付く。
全ては夢のようだ。そしていつでも同じ場所から眺めている。
装わない者だけ、逃げない者だけ、誤摩化さない者だけ、
場は通してくれる。
捨てて、裸になって、素にならなければ、この道は通れない。
この世において、絶望が深い人、全てを失っているような人、
ある意味で極限のようなところにいる人、
そういう人達ほど、場においては豊かであることが多い。
まるで世の中とは逆のような光景をよく見る。
それが何故なのか、僕には分かる。
いずれにしても裸になって場に抱かれるのは救いと言って良い。
だからこれもよくいうことだけど、
こんなに持っているよ、とかどう凄いでしょ、とか、
これがわたし、とかそういう見せようという意識が、
どれほどその人を濁らせてしまっているのか、
単純に言うならつまらなくしてしまっているのか。
評価や、出来る出来ないだけで人を見る社会に慣らされてしまって、
それが癖になっているのだから仕方ないが。
テストされて来た人間はやがて人をテストするようになる。
その連鎖が社会と人間関係をつくっている。
場が言っていることは、すべての存在はただ無限の中で、
ある場所が与えられている、ということ。
自分を小さくしなければ、自分の居るべき場所が見えない。
持てば持つほど、装えば装うほど、構えれば構えるほど、
本来の場所から遠ざかる。尊厳を失う。
尊厳は素の状態にあるから。
場が教えてくれるもう一つのこと。
全ての瞬間が奇跡であり、掛け替えのないものであるということ。
大切に丁寧に生きること。
何度か書いたことだけど、有り難かった感覚の変化として、
これまで経験して来た場がいくつもいくつも重なって行って、
今の場になって行く感覚がある。
最近はまたちょっと変わってきた。
強く実感するのは、折り重なる無限の感覚と同時に、
これまでの一つ一つの場での時間は、確かに今もここにあって、
一つ一つが別の命を持って生きているということだ。
それは場でのことだけではなく、
人生での経験もすべて含まれる。
過去は決して消えるものではない。もしかしたら過去など存在しない。
こんなにもはっきりとそれぞれの時間が今も生きているのだから。
この世から本当にたくさんの人が居なくなってしまった。
恩師も友も。
それでも追悼のような文章を読んでいて違和感を持つ自分が居る。
みんなここに居るのに、と。
何故だろう、確かに居るし、生きていた頃と全く変わっていない。
だから生も死もますます分からなくなって行く。
何処までが生なのか、どこからが死なのか。
かつて存在した全ての時間は、今も生きている。
それは場が確かに示している認識の一つだ。
科学が何と言おうが、理屈がどうであろうが、
強い実感を否定することが出来ない。
場において鳥や草木と対話出来ることや、
偶然と遊べることや、過去も未来も、そこにない情景も取り込むことが出来ること、
それをどう見たら良いのか。
理屈で説明出来るはずがない。
それでもそこに居る人達は、少なくともその瞬間は確信を持っている。
いやもっと自然に当たり前に受け入れている。
今日はこの辺にしておきましょう。
明日はまた制作の場に入ります。
みんなが帰って来る。楽しみ。