昨日の早朝、モロちゃんからメールがきた。
「ミラノへ行ってきます」という内容だった。
モロちゃんがイタリアに憧れていた話は、
アトリエで彼女がいきいきと話していた。
帰って来てもすぐにソウルだという。
出張直前に連絡をくれたことは本当に嬉しい。
本当に頑張って欲しい、と言うより一緒に頑張りたい。
イサからもメールがきた。夏、会いたいと。
元学生チームのみんなが、このアトリエでの経験を大切にして生きていること、
信頼してくれていることが何より嬉しい。
僕達はいつでもつながっている。
大人である彼らに、こんな言い方も失礼なのだが、
僕にとってはゆりあやイサやモロちゃんや赤嶺ちゃんや、エクセルや、
みんなのことが可愛くてしかたない。
かわいいといっても、上から見ている訳ではない。
時には10才も歳が離れている僕の方が子供のようになって、
彼らに助けられることも多い。
「佐久間さん、それ出来ないから」と、何でも言ってくれるし。
僕達はそんな関係だ。
彼らが居なかったら、僕もよし子ももっと孤独だったと思う。
今、毎日午前だけ夏のアトリエを開いている。
初めての人を見ることもある。
最初のきっかけは本当に大切だ。
作品を見ていて、もしこの場面で他の人が見ていたらどうなったかなとか、
ここをはずしちゃったら、その後、時間が凄くかかるなとか、
これ逃したら「描く」というモードをおぼえることなく終わるかもとか、
様々な場面に立ち会う。
僕自身はたいして何かが出来る訳ではないのだが、
それでもこんな場面があるので、なかなか人に任せられないなあと思う。
外でゆがめられた作品にふれると、
僕が関わっていれば良かったと感じなくはない。
何度もことわるまでもなく、僕が何かの能力があるという訳では勿論ない。
そうではなく、分かっておくべきことはあるということだ。
作品を引き出す場面で(引き出すという言葉も、強引なものなので実際にはそぐわないのだが)僕が難しさを感じることはない。
すべては単純で簡単で自然なことだ。
前回、素直さについて書いたが、そこと通じると思うのだ。
困難や限界は、ほとんどの場合、自分でつくっている。
最近でも仕事や生き方に行きづまった方がアトリエに来る。
スッキリして帰って行かれる方も多いが、
なぜそんなことがおきるのか。
作家たちから学べることは本当に多いと思う。
迷わず悩まず、素直に生きていれば、難しさは感じない。
大切なのはありのままであることだ。
この環境の中でだけなら、それも出来るけど、と思われる方が居たらそれは違う。
ここで出来れば他でも出来る。
だから、ここで何かしら学んだ人が良い生き方が出来たらいい。
本当は難しことなんて何にもない。
ただ、感じたままに動けばいい。
みんな小さな頃から、親や先生や大人から、
「よく考えなさい」みたいなことを言われ続けている。
だから、難しくなってしまった。
考えることなんて本当はなんの役にも立たない。
考えないで動ける方がよっぽど立派だ。
考えないで感じること、身体で反応することが何より大事だ。