2012年7月15日日曜日

豊かさ

昨日のアトリエは暑かった。
クーラーもなかなかきかない。
今日は早い時間から弱めに冷房にしておこう。

前回の話題の中で僕は豊かさという言葉を使った。
貧相という言葉も使った。
そして、それらは物質的なものではないと書いた。
では、僕が言うところの豊かさとは何か。
答えはもうすでに書いてきた。

生における立体感、リアリティ、良い経験を刻む、描写力、
色々書いて来たが、それらが私達を豊かにする。

もう一つ遊びという要素も入れておきたい。

その前に、本当は書きたくないが触れておこう。
ここ数日、滋賀県の学校でのいじめの問題が報道されている。
何をやっているのだという思いしかない。
社会も学校も親も、それぞれ問題だと思う。
いい加減になぜ、くり返すのか見直すべきだ。
こういう問題があるとその時だけ、いじめが話題となる。
しばらくすると忘れられる。
またしばらくすると、こういう問題が出てくる。
そんな事をここ数年くり返している。
いじめが起きるシステムを作り替えなければ意味がない。

色んな人が色んなことを言っているが、
本質を言うなら、いじめは大人の責任だ。
いじめがおきると言うことは、大人がいじめを許してしまっている、
と言うことだ。それにつきる。
気づかなかったと言っても、気づかないと言うことは許したも同然だ。
また、どこからがいじめなのかの判断が難しい、
という意見を教師が言っていたが、今すぐ辞職した方がいい。
そのくらい、分からないはずがない。
子供の世界に大人が関与してはいけないという、
これまた無責任な意見もある。
悪があり、その事で傷つく人間がいる時に、関与していいもいけないもない。
関与すべきだ。それしか方法はない。
大人が断固としてここは許さない、という信念がない以上、
こういったことはくり返される。

難しい問題です、ともっともらしく言っているが、
はっきり言って何にも難しくはない。
悪いものを悪いと大人がきっちり線引きして、
何があっても認めない、許さないという目線で関与する。
それで終わりだ。

そういう姿勢を関わる側が持てば、いじめは消える。

ここでは何度も「場」というものを書いてきた。
教師にとっては教室はこの場だ。
場は問題がなければそれで良い訳ではなく、
みんなで絶えず良くしていく姿勢が必要だ。
普段からそういう意識を持っていれば、いじめなどおきようがない。

僕達のアトリエではいじめや争いどころか、
何の隠し事も抑圧もない。
来る人みんなが心地良く、自由にふるまっている。
1人でもさみしい思いを抱いていたり、不快だったりすることがないように、
みんなが気持ちよく過ごせるように、一人一人が協力する。
人を喜ばせたり、人の為に何かをする事の気持ち良さが分かる、
そんな自然な場を創っている。

人が集まる時、みんながどうすれば自由に気持ち良くなれるか、
その事が、本当は最も学ぶべきことのはずだ。
人間には本能としてそのように、人や場を良くして、
みんなで調和を創る感覚が備わっている。
だから、そういう経験と記憶を小さな頃から刻み付けることだ。
これがテーマとした豊かさともつながる。
豊かさを知っていれば、いじめや争いはおきない。

以前に人間は不快を避け、快を求めると言うことを書いた。
それが答えだろう。

貧相を感じるところには「遊び」の要素がない。
豊かさには「遊び」がある。
では、遊びとは何なのか。
人間の感覚における「不快」は危険や病へ向かう要因だ。
それに対し「快」は健康や調和やバランスを意味している。
遊びとは快に向かう行為だ。
遊びには意味や目的はない。人は気持ち良いから遊ぶ。

この遊びが本当に出来るようになることが何より大切だ。
遊びはどうすれば快でどうすれば不快なのか、身体でおぼえる行為だから。
意味や目的ばかり子供に教えると、遊びの感覚が充分に養われない。
これが実はいじめや様々な問題を生んでいる。
大人の世界もそこから見直さなければならない。
意味や目的は、頭の世界だ。それだけに支配されてしまうと、
本能としての快が分からなくなる。
感覚が弱くなる。
人の痛みが分からないというのは、道徳の問題ではなく感性の問題だ。
テレビでは動物園のパンダの赤ちゃんの死に、
小さな子供が泣きじゃくる場面が映されていた。
見ていて可哀想でこちらもつらくなる。
でも、ああいう経験をしっかりしていれば、いじめをはじめとした問題はおきない。
悲しみや人の気持ちを感じとるということは、感性の問題なのだ。
感性は頭の活動を静かにしなければ動かない。
意味、目的、という頭の世界から一旦離れてとことん遊ぶこと。
それが大人にも子供にも必要なことだ。

なぜ、人は洞窟に絵を描いたのか、なぜ音楽を創ったのか、
そもそもなぜ二足歩行しだしたのか。
それはおそらく、気持ち良いから、楽しいからだと思う。
本当はここに意味や目的がある訳ではないはずだ。

アトリエへ来ても、作家たちの世界や作品になぜ、どうして、
なんの為に、という意味や目的ばかり知ろうとする人が多い。
その前にもっと感じてみたらどうだろうか。
意味も目的もなく、ただ気持ちいいから純粋に行為するという素直なこころが、
私達をこれまで生かして来たのではないだろうか。

本能はどんどん失われていく。
制作している時の作家たちのように、私達ももう一度、素直に楽しもう。
そこに大切なものや、ヒントが無限に潜んでいるのだから。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。