昨日のアトリエは暑かった。
クーラーもなかなかきかない。
今日は早い時間から弱めに冷房にしておこう。
前回の話題の中で僕は豊かさという言葉を使った。
貧相という言葉も使った。
そして、それらは物質的なものではないと書いた。
では、僕が言うところの豊かさとは何か。
答えはもうすでに書いてきた。
生における立体感、リアリティ、良い経験を刻む、描写力、
色々書いて来たが、それらが私達を豊かにする。
もう一つ遊びという要素も入れておきたい。
その前に、本当は書きたくないが触れておこう。
ここ数日、滋賀県の学校でのいじめの問題が報道されている。
何をやっているのだという思いしかない。
社会も学校も親も、それぞれ問題だと思う。
いい加減になぜ、くり返すのか見直すべきだ。
こういう問題があるとその時だけ、いじめが話題となる。
しばらくすると忘れられる。
またしばらくすると、こういう問題が出てくる。
そんな事をここ数年くり返している。
いじめが起きるシステムを作り替えなければ意味がない。
色んな人が色んなことを言っているが、
本質を言うなら、いじめは大人の責任だ。
いじめがおきると言うことは、大人がいじめを許してしまっている、
と言うことだ。それにつきる。
気づかなかったと言っても、気づかないと言うことは許したも同然だ。
また、どこからがいじめなのかの判断が難しい、
という意見を教師が言っていたが、今すぐ辞職した方がいい。
そのくらい、分からないはずがない。
子供の世界に大人が関与してはいけないという、
これまた無責任な意見もある。
悪があり、その事で傷つく人間がいる時に、関与していいもいけないもない。
関与すべきだ。それしか方法はない。
大人が断固としてここは許さない、という信念がない以上、
こういったことはくり返される。
難しい問題です、ともっともらしく言っているが、
はっきり言って何にも難しくはない。
悪いものを悪いと大人がきっちり線引きして、
何があっても認めない、許さないという目線で関与する。
それで終わりだ。
そういう姿勢を関わる側が持てば、いじめは消える。
ここでは何度も「場」というものを書いてきた。
教師にとっては教室はこの場だ。
場は問題がなければそれで良い訳ではなく、
みんなで絶えず良くしていく姿勢が必要だ。
普段からそういう意識を持っていれば、いじめなどおきようがない。
僕達のアトリエではいじめや争いどころか、
何の隠し事も抑圧もない。
来る人みんなが心地良く、自由にふるまっている。
1人でもさみしい思いを抱いていたり、不快だったりすることがないように、
みんなが気持ちよく過ごせるように、一人一人が協力する。
人を喜ばせたり、人の為に何かをする事の気持ち良さが分かる、
そんな自然な場を創っている。
人が集まる時、みんながどうすれば自由に気持ち良くなれるか、
その事が、本当は最も学ぶべきことのはずだ。
人間には本能としてそのように、人や場を良くして、
みんなで調和を創る感覚が備わっている。
だから、そういう経験と記憶を小さな頃から刻み付けることだ。
これがテーマとした豊かさともつながる。
豊かさを知っていれば、いじめや争いはおきない。
以前に人間は不快を避け、快を求めると言うことを書いた。
それが答えだろう。
貧相を感じるところには「遊び」の要素がない。
豊かさには「遊び」がある。
では、遊びとは何なのか。
人間の感覚における「不快」は危険や病へ向かう要因だ。
それに対し「快」は健康や調和やバランスを意味している。
遊びとは快に向かう行為だ。
遊びには意味や目的はない。人は気持ち良いから遊ぶ。
この遊びが本当に出来るようになることが何より大切だ。
遊びはどうすれば快でどうすれば不快なのか、身体でおぼえる行為だから。
意味や目的ばかり子供に教えると、遊びの感覚が充分に養われない。
これが実はいじめや様々な問題を生んでいる。
大人の世界もそこから見直さなければならない。
意味や目的は、頭の世界だ。それだけに支配されてしまうと、
本能としての快が分からなくなる。
感覚が弱くなる。
人の痛みが分からないというのは、道徳の問題ではなく感性の問題だ。
テレビでは動物園のパンダの赤ちゃんの死に、
小さな子供が泣きじゃくる場面が映されていた。
見ていて可哀想でこちらもつらくなる。
でも、ああいう経験をしっかりしていれば、いじめをはじめとした問題はおきない。
悲しみや人の気持ちを感じとるということは、感性の問題なのだ。
感性は頭の活動を静かにしなければ動かない。
意味、目的、という頭の世界から一旦離れてとことん遊ぶこと。
それが大人にも子供にも必要なことだ。
なぜ、人は洞窟に絵を描いたのか、なぜ音楽を創ったのか、
そもそもなぜ二足歩行しだしたのか。
それはおそらく、気持ち良いから、楽しいからだと思う。
本当はここに意味や目的がある訳ではないはずだ。
アトリエへ来ても、作家たちの世界や作品になぜ、どうして、
なんの為に、という意味や目的ばかり知ろうとする人が多い。
その前にもっと感じてみたらどうだろうか。
意味も目的もなく、ただ気持ちいいから純粋に行為するという素直なこころが、
私達をこれまで生かして来たのではないだろうか。
本能はどんどん失われていく。
制作している時の作家たちのように、私達ももう一度、素直に楽しもう。
そこに大切なものや、ヒントが無限に潜んでいるのだから。