2012年7月14日土曜日

日常と非日常

夜中、ずいぶん雨が降ったが、明け方から晴れてきた。

食について書こうと思っていたが、それを考えていたらこのタイトルになった。
現代のような複雑な情報にまみれた社会にいて、
この混沌をなんとかして新しい価値を作っていくには、
衣食住を根本から見直すのが第一だと思う。
なぜ、そんな事を考えるかと言うと、
僕自身が自給自足に近い生活を経験して来たことがあるのと、
毎日ダウン症の人たちと過ごして来て、
シンプルさの素晴らしさを多くの人が忘れていると感じるからだ。

ここの作家たちの魅力は、生のシンプルさからくるものが多い。
そんな彼らと居ると、私達は無駄なものを作り過ぎているなと感じる。

そこで、人間の基本である衣食住をもっとナチュラルなものとすべきだと思う。

まずは最低限の機能を考えることで自由になれる。
でも、その上で非日常も考えるべきでは、というのが今回のテーマだ。

先日、テレビに坂口恭平という人が出ていた。
語りも上手いしキャラクターもいいので、今後どんどん出て来そうな人だった。
話が面白い。
彼は建築家のようだが、
住むという当然の事にお金がかかりすぎることがおかしいと考えた。
ホームレスの方達のもとに通い、お金をかけない住居のモデルとしたそうだ。
彼はお金がなくても家が建ち、住むことが出来ることを証明しようとしている。
それによって新しい生き方が見えてくるはずだと。
この考えに僕も基本的には賛同するし、
これから様々なジャンルで彼のような価値観をもった人が必要とされてくると思う。

ある作家との対談も見たが、考えの違いが面白かった。
その作家は坂口に対して、「もっと豊かさを知れ」というようなことを言っていた。
ここでも基本的には僕は坂口さんの方に共感する。
作家の意見はどこか古い。
世代間の違いなのかも知れない。
作家はお金が信用出来た時代を生きて来た。
坂口はその様な価値の崩壊した後を生きている。
だから、作家に対して坂口も僕ももうそんな価値観は古いんだよ、
という気持ちがある。
でも、あえて言うなら、作家の意見にも一理ある。

坂口さんの議論は終始、機能についてのみなのだ。
そこには何か豊かさが欠けている。
ただ、僕の言う豊かさとは物質的なそれではない。

確かにもう少し前から、「ささやかな日常」「何気ない日常」がブームだ。
これまで情報に洗脳されて、振り回されて来たのだから、
足下を見つめて、日常を楽しむという基本に戻る。
それは良いことだとは思うが、これにも偽物感が残るのはなぜか。

回り道はやめにしてはっきりと言おう。
今、言われている日常を大切に、の日常が貧相すぎるのだ。
勿論、ここで言う貧相さも物質の問題ではない。
あえて言うなら、人は豊かさを求めるべきだと思う。

日常を超えてみた経験がなくして「ささやかな日常」の価値が見えるだろうか。
日常とは非日常があってのものだ。
僕は日常ブームに変わりたくない人達の、慰みをみる。

例えば、デザインにしろ何にしろ、シンプルと言う逃げ方がある。
ただ豊かさが欠落しているものを機能美と言ってみたり、
日本的ミニマリズムと結びつけたりする。
でも日本の引き算の美学、削ぎ落とした美しさと、
現代のシンプルな機能美と言われているデザインは異なっている。
日本的な削ぎ落としの美とは、豊かにあるものを、あえて削るのであって、
初めから貧相なのとは違う。

日常を良い訳に変わることを恐れてはならないし、
向かっていく勇気がないからと言って、ささやかな日常などと誤摩化してはいけない。

日本には昔からハレとケという言葉がある。
ケはしきたりや礼儀、日常のことだ。ハレは祭りなど非日常のこと。
この2つがあって初めて共同体が機能すると考えられていた。
どちらかだけでは駄目だということだ。

食に関しても同じことが言える気がする。
僕はよく食に関する本を読む。
特に平松啓子さん、高橋みどりさん、高山なおみさんの文章は素敵だ。
辰巳芳子さんは次元が違っている。
食に関してはこの方が一番本質をついている。
他の方は味覚というところに重点があるが、辰巳さんだけは食イコール生命だ。
佐藤初女さんというおむすびで人のこころを癒す方もおられる。
いつか、辰巳芳子さんと佐藤初女さんが食について語り合ったら、
どんなに多くの方が救われることだろうと思う。
こんなに丁寧に慈しむように生きていらっしゃるお2人を見ると、
頭が下がり勉強になる。
食は命であり丁寧に人とつながることであると教えられる。

このお2人からは、毎日の食を疎かにしてはならない事を教えられるが、
もう一つ、食には非日常性もあると思う。
ここについてはあまり語っている人がいない。

よくこんな意見を聞く。
レストランで食べる料理や、料理人の作る料理は食の本質ではない、と。
なぜならそれは非日常なものだから、と。
僕は全くそうは思わない。
食にはもともと非日常性のようなものがあったと思うから。

それは、食だけではない芸術にも言葉にも踊りにも、恋愛にも、
非日常性がある。高揚感、恍惚感、自分を超えていく感覚が。

結局のところ、非日常性とは、自分が自分でなくなる感覚ではないだろうか。
そういう経験を持たなければ、自分はいつまでも自分のままだ。

遥か昔のことを考えてみよう。
人間は猿の仲間で雑食だった。肉は非日常だ。
肉を食べた時、どんな感覚だっただろうか。
おそらく強烈な恍惚感があったに違いない。
今よりももっともっと、動物が近くにいた時、動物と人間は兄弟のような感覚だった。
その兄弟を殺して食べる。それはどんな感覚だろう。

本質を言うなら、食とは何かを殺害して自分の中に入れる行為だ。
そこに自分の中に他が入る、他と自分がつながるという高揚感が生まれる。
かつては食べると言うことが、
もっともっと強烈な驚きに満ちた体験であったに違いない。

ネイティブアメリカンの本を読むと、彼らが長い命がけの旅に出る時、
祖母が自分の身体の肉をナイフで切りとって、乾燥させて渡した、と書いてある。
その肉を食べる描写も出てくる。
沖縄かどこかではかつては、人が亡くなると親族でその身体を洗って、
肉をみんなで食べたと言う。

食にはこういう部分があるはずだ。
生命が生命とつながる、響き合うとは単なるきれいごとではなく、
強烈な経験であり、これまでの自分が無に帰することであったはずだ。

僕には日常などない。
毎日毎日、瞬間瞬間に今を超え、他とつながる。
響き合う。自分が自分を超え、他のものになる。
変化の連続が世界だと思っている。

そのことはここの作家たちにしても同じだ。
だからこそ毎回新鮮な絵が描けるのだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。