2011年9月20日火曜日

外にある自然と内にある自然

今回も前回の続きの様な話を書く。
自然は美しい。そして自然は謎にみち、怖くもある。
自然は人を超えている。
それと同じ事が私達の持つこころにも言えると思う。
前回、こころについて少しだけ書いた。
一番重要なのは、こころの中にも大自然と同質な領域が存在すると言うことだ。
それを証明しているのは、人間の本能だ。
私達は、教えられなくともこの世界で生きていくために、
何が安全で、何が危険かを知っている。
教育によって身につけていくのは、もっと社会的な領域だ。
私達はこころのどこかでは、すべてを知っているとも言える。
この世界に生まれ、どのように振舞うべきか、本能は分かっている。

以前、小さな集落に居させてもらった事がある。
今では人も居なくなって、家もいくつかしか残っていなかった。
そこで、古い写真を見せてもらった。
かつて、幾つもの家が並び、田んぼや畑が広がっていた頃の情景。
それを見た時に感じた事があった。
この人達は自然と一つになって生きているということだ。
少し標高もあるところなのだが、その写真で見ると、
自然のものである山々や草木と、人の生み出した住居や田畑が、
完全に一体化していた。人の表情も土地の色に溶け込んでいる。
僕が居た建物は茅葺き屋根で柱も太く、強烈な存在感を放っていた。
その為に、周囲との一体感をあまり意識しなかった。
ところがそれは、他の建物が無くなって一軒だけ残ってしまった事による、
不自然な景色だったのだ。
昔の沢山の住居と自然の中で見ると、
あの強烈な存在感は無く、逆に全体の中に埋もれている。
昔の人達はもっと謙虚だ。
雪の中で、ほとんど無いに等しい位に埋もれている建物を見て、
本当に人が自然の近くにいる事の意味を考えた。
それにしても、完璧なまでに自然な集落の作りだった。
人が住んでいる事を最小限にとどめるように、
場所が選ばれ、配置されている。
それは自然の中で一番目立たない場所でもあった。
ある映画の撮影にも使われたそうで、
その時に上空から撮った写真もあった。
上から見ると、ますます自然とのバランスが良い。
沢山の建物と田畑と草木や山々が、始めからそのようにあったように自然だ。
あの様な住居は一軒いっけん、別の人が建てた訳だし、
全体を見て纏める人など居なかったはずだ。
まして上空からなど見ていた人は居ない。
それにも関わらず、全体が一つになったデザインを、
上空から見て完璧な配置を人々は作り上げて来た。
彼らは必要に応じて、自然からの恩恵を受け取り、
危険の無い様な選択をし、周囲に配慮して生活をつくった。
おそらく自然の声に耳を傾けて。
結果があのようなバランスになっていったのだろう。
私達がダウン症の人たちの作品に見る感性と同様で、
自然と調和するというのは人間の本能だ。
人にはそれがなぜ可能かといったら、
外にあるあの自然と同じものが、人間のこころの中にもあるからだ。
もっといえば、自然をあのようなバランスに保っている構造が、
私達のこころを創っていると言える。

このブログでも、ダウン症の人たちの感性から学ぶと言うことを書いてきた。
それは私達のこころの本来の姿を知り、
本能を目覚めさせようという事でもある。
自然からも、本能からも遠ざかり、情報と欲望に埋もれて、
自己破壊の危機に迫っている今こそ、見直されるべき事がある。
調和や平和のバランスを創る力を、自然の中、人の中、自分の中に発見したい。

どうすれば、私達がそのような本能を蘇らせることが出来るのか。
ヒントになるのは、例えば何度も書いてきたが、
制作の場における、ダウン症の人たちの在り方だ。
こころが何者にも縛られず、自由に動けばこころ自身がバランスを創る。
良いときの彼らは制作する時、本当にすべてを知っているように見える。
次にどのように振舞うべきか。
意図とは別に絵の具がこぼれても、自然に、どうすればきれいになるか分かっている。
自然(例えば瞬間に入り込む偶然)と戯れ、調和していく。
こころがこういった働きをするには、
一切のとらわれや、わだかまりや、欲望や、プライドや、恐怖心から、
一旦、離れる事が必要だ。
本当にこころからそういったすべてを外して、
まっさらになったら、何をどうするべきかが分かる。
私達のこころには、今の時代だったら、情報が入り込み過ぎている。
情報はこころが働くスペースを犯す。
技術もある意味で同じだ。
ただ、今の私達に情報や技術を無くして、生きていく事は難しい。
ではどうするか。
情報や技術を持っていても、
そこからいつでも離れることが出来るようにしておく事だ。
前回、スタッフのこころの使い方に少しふれた。
相手のこころの動きを見極め、適切に読みつつ、
共感し響き合っていく為に、自分のこころをフラットにすると書いた。
彼らが制作する時のこころの動きと同じことが、
スタッフにも言えるということだ。
次に何をすべきかと言うことは、こころを無にしていれば(ニュアンスが難しいのであまりこの言い方は好まないが)分かる。
自分のこころの癖や歪み、限界を知っておくことで自由になるとも書いた。
人間は弱い。どんなに嫌な人間と思っても、
そうなる要素は自分の中にもあることを忘れてはならない。
逆にどんなにきれいな素晴らしいこころの人でも雲の上の存在ではない。
人のこころは基本的な形は皆同じだ。
縛られていない、制限を受けていないこころの状態にある人など居ない。
だから、自分の限界を知っておくことで、
必要に応じてそこから自由になり、こころの源に帰ることが出来る。
そうなる為には勿論、普段からの訓練が必要だ。
まずは素直になること、まっすぐに物事を見ることが大切。
それから、日々の中で良いものを沢山見付けていきたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。