2011年9月13日火曜日

共感する

前回、前々回と、自閉症の人達との比較という、やや細かい話題にふれてきた。
今回はもう少し一般的なお話をしたい。
ただ、一つだけ補足させていただきます。
ダウン症の人たちを記述する部分では、いつもすぐれた資質にふれているのに、
自閉症の人に対してはやや慎重な言葉にとどめた事について。
これはダウン症の人たちの方がすぐれていると言うことでは全くない。
僕が気を遣ったのは逆にこれまで自閉症の人たちについて、
「驚異の能力」「驚くべき記憶力」等が、キャッチフレーズのように語られて来た。
讃えられる事は、実はいいことばかりではない。
前回書いたが、なぜ彼らがあのような再現能力を持つのか、
考えもせずに祭り上げると、かえって彼らにとって生きにくい環境になっていく。
これは障害を持つ人達の才能や能力を取り上げる時、気をつけるべき問題の一つだ。
一つだけ例を挙げる。
障害を持つ人達について、
「彼らは細かい作業が得意なんです」とか、
「私達と違って、憶えるのに時間はかかっても、一度おぼえれば丁寧に間違えないでずっと続けていられるんです」とか、
そういう事を言う人は多い。
しかも、よく聞く話として「障害のある人達は細かい作業をひたすら続けるのが得意」
という誤った常識が広がりつつある。
こういった事には注意が必要だ。
勿論、細かい作業を繰り返すのが得意な人は結構いる事は事実だし、
彼らはそういう作業に生き甲斐を感じ、自信を持つ。
その人にとっては素晴らしい事だ。
だけど、かならずしもみんなそうではないことは、当たり前だ。
勝手に得意にされて、困っている人達も確実にいる。
さらには、そういった作業にしか参加させてもらえていないという現状を、
見直した上で、本当にそうなのか考えてみて欲しい。
ここでも、誤解がないように書いておくと、
勿論、細かい作業を繰り返すということは、立派な行為であり、
大袈裟かも知れないが、偉大な仕事であると思う。

さて、今回は「共感する」と言うことの大切さを考えたい。
僕は自分が知らない世界というものが好きだ。
自分が知らなかったり、見えないものがあって、
それを知っていたり、見えている人と話してみるのは楽しい。
幸いに、様々なジャンルの専門家や、色んな生き方をしている方々に出会う事が多い。
僕達もかわった事をしていると思われているので、興味を持たれる方も多い。
動物を知り尽くしている方や、海や森を知っている方、
職人さんの世界。そういう世界には特に興味がわく。
何かを専門にしていると、普通の生活の中では見えないものが見えたり、
感じられないものが感じられる。
そんな人達と話していると、「あっ、その感覚一緒だ」と思うことがよくある。
お仕事で出会っている方について、細かく書くと支障があるので、
ここではプライベートで出会っている方との話を書こう。

最近はぜんぜん行けていないが、近所に鍼灸院がある。
そこの先生とはこう言ったら失礼かも知れないが、とても気が合う。
実は鍼になど興味がなかった。
長い間、身体の疲れすらほとんど経験した事もなかった。
極端な話、身体というものが存在していて、その限界の中に自分がいる、
という事実を自覚したのは数年前だったと思う。
急に疲れ果てて、身体が自由にならない時期があった。
まあ、色んな事が重なった時期だったと思う。
その頃、鍼灸に出会った。
最初に行ったのは結構遠いところだった。
でも、そこに2、3回通っただけで、身体が元気になった。
それから、近所にあるところが良いと、よし子に教えてもらって、
僕もたまに行くようになった。
この鍼の先生とはいつも話し込んでしまう。
アトリエ以外の場所では聞かれないかぎり、仕事の話はしないようにしているが、
先生とはお互いの仕事の話ばかりしている。
一番意気投合したのが、「共感する」ということだ。
先生は共感する事を治療の最も大切なポイントだという。
癌の人を治した事もあるらしいが、そのときも共感の力が強く働いたそうだ。
共感するだけで、何かが変わる。
鍼をさす、お灸をするというのはあくまで手段だそうだ。
お互いが繋がり、共感が伝わった時、何かが変わるという。
この先生は面白い方で、頭に触っていると、その人の考えや、
過去や様々な事が見える。本当に分かるのだ。
僕も見てもらったときは大体当たっていた。
でも、なぜそれをするかと言ったら、相手に共感するためだ。
もう一つ、興味深いのは、先生は絵を見ていても、
画家の身体の状況が分かるそうだ。
だから、絵を見ていて身体のあちこちが痛くなったり、気持ち悪くなったりすると言う。
先生にダウン症の人たちの描いた絵を見せると、
本当に気持ちが良くなる絵だと感動されていた。
多分、身体を見ていく中で、様々な状況下で相手と一つになる、
という技術を磨かれてこられたのだろう。
絵を見ただけで身体が分かったり、
身体に触れただけでこころの中や、その人の過去が見えると言うと、
不思議に思う人は多いだろうが、僕はそれは有り得ると感じる。
制作の現場でも実際同じ様な事はおきるからだ。
個人的には実感としてその様な経験があるが、あまり言わないようにしている。
なぜなら、あっちの世界の話になってしまうからだ。
あっちの世界に行く事は必要だが、必ず戻ってこなければならない。
不思議なことが大事なのではなく、
共感しようという努力が不思議な世界を見せてくれるのだ。
気とかオーラとかいうのも同じで、僕はそういった言葉を使ったらアウトと思っている。
こういう言葉は便利でもあるので使いたくもなるし、
実際にそういったものを仮定しなければ、説明出来ない仕事でもある。
ただ、そういう自分達だけが分かっている世界に入ってしまうと、
他の世界の人には関係のないものになってしまう。
絵を見れば分かるから、分かる人だけ見れば良いという考えも、
下手をすると気やオーラのような話になってしまうので気をつけている。
ただ、言える事は自分のこころを磨き、
良い「気持ち」を相手に向けて、相手と一つになる事によって、
何かが変わり、良い方向に動いていくと言うことだ。

面白いのは多分、先生は相手を見ると、あるいは触れると、
その人の一番弱い部分、つらい部分が見えて、そこを共有する。
僕は多分その逆。まず始めに相手の一番強い部分、良い部分が見える。
まだ、それが表面に出て来ていなくても見える。
そしてそこに共感していく。
先生も僕も多分、人の幸福という同じものを目指すが、
プロセスにおいて違いがあるのだろう。

もうひとつだけ、興味深かった話を書く。
先生は治療する時、自分の中に森とか海とか自然をイメージするらしい。
そうすると相手に心地よい空間が伝わっていく。
これに近い事は確かに僕にもある。
自分の精神や身体の力だけでは現場は回っていかない。
自分の力に頼っていると消耗していくだけだ。
なにかしら自分を超えたものが、自分という器を使って仕事するイメージを持つ。
それだけでぜんぜん違ってくる。
ただ、ここでも僕の場合、森や海といった具体的イメージを避ける。
もっと何にでも変わりうる様な漠然とした空間をえがく。
例えば、制作に入る時、1人の作家のこころの中に、
作品がいくらでも出てくる自由な空間の様なものが見えるが、
これが見えないと上手く流れていかない。

先生が言うように、共感する事によって、必ず何かが変わる。
より自然に、より良い流れが見えてくる。
生命は絶えず、良くなろうとしている。

人と人が響き合う、共感すると言うことが人間の本能の一つだと言える。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。