2011年9月5日月曜日

ダウンズタウン

土、日曜日は久しぶりに絵のクラス。みんな相変らずすごい。
さとし君、てる君は休み明けだとさらに勢いがある。
描き終わった後に、すぐる君としばらくお話しするのも日課。
「今度はねえー。キャンプ場に行くんだよ」
「どこのキャンプ場?」
「サワガニキャンプ場」
「サワガニキャンプ場?すごいね。サワガニがとれるの?」
「サっサワガニはねー。とれない。サガワニはいるんだよ」
「サガワニ?佐賀のワニ?」
「サガワニはいいんだけど、キャンプ場の奥に蛇がいるんだよ」
「あぶないね。奥には行かない方がいいね。蛇はあぶないよ」
「蛇って言うかね、ガマガエルなんだ」
「ガマガエルくらいなら、大丈夫か」
「いや、ガマガエルは、ちょっとだけ毒を持ってるからね」

「ご飯はねー、イギリスは肉がまずいんだよ。だから妹はパンを持って行ったんだよ」
「えっ、イギリスにいってるの?いつ帰って来るの?」
「9月7月」
「9月7月か」(9月7日)

「イギリスはね、ナイフとホークを使うんだよ」
「日本はお箸だよね」
「ドイツは手だよ」
「えっ、ドイツって手なんだ。僕もドイツ行ってみたいなあ」
「ドイツは危ない。ドイツは戦場カメラマンが行くんだよ」
「ドイツのトイレはどうなってるの?もしかして手?」
「ドイツはねえ、吊るしてある布でふくんだよ」
「ドイツの食べ物と言えば、カレーでしょ」
「そうカレー」
「じゃあ、インドは何食べるんだっけ?」
「インドはねえ、ナン!」

さて、今回はダウンズタウンについて書く。
(特にアール•イマキュレやダウンズタウンの部分は、アトリエ内でもそれぞれの考えと思いがある。このブログで書いているのは、スタッフとしての佐久間の見解である事はおことわりしておく)
ダウンズタウンについては、既にパンフレットも出来ているし、
ネット上にページもあるので、概要はだいたい見れるようになっている。
ただ、少し誤解もある事は事実だ。

ここでは、少しだけ大きな視野で考えていきたい。

「アール•イマキュレ」と同じく、「ダウンズタウン」も、
ダウン症の人たちの作品と、彼らのこころの在り方を見つめていく中から、
ある意味で必然的に見えて来た概念だ。
僕自身は、この2つは直結していると考えている。
イマキュレ作品にある、共通した感性とは何か。
彼らが同じ背景を、文化を、こころを共有していることが分かる。
そして、このあえてひと言で言えば平和なこころは、
私たち人類の心の奥にある、もっとも根源的で重要な感覚なのだと思う。
ダウン症の人たちの持つ感性を活かし、提示出来る場があれば、
そこで私たちは、本来、人間誰しもが持つこころの源に出会い、
自らのその機能に気付く事ができる。
その様な文化装置がダウンズタウンの大事な要素だと思う。

大袈裟に言えば、私たち一人一人が人間としての大切なものを、
発見出来、重視出来るかどうかが、ダウンズタウンの実現を決定づける。

ダウンズタウンという考えは、2005年におこなわれた、
聖路加国際病院でのシンポジウムでの、佐藤よし子の発言で、
始めて公的に語られた。
その後、中沢新一氏という協力者を得て、多摩美術大学芸術人類学研究所と共同で冊子やホームページが作られた。

中沢新一氏や多摩美術大学も、賛同者、協力者として大切な方々ではあるが、
他の大学や、学者の方もそれぞれ、重要な協力者となって下さってもいる。
様々な立場の方々が垣根を越えてご協力下さっている事も書き添えておきたい。

このプロジェクトは様々な方達のご協力を得なければ実現出来ない。
言い換えれば、社会がダウンズタウンを必要としなければ、
それは現実のものとはならない。
私たちは、具体的な土地や仕組みを構想していくと同時に、
文化的土壌づくりもおこなっていかなければならない。
真の理解者を増やしていく事が重要な課題でもある。

ではダウンズタウンとはどのようなものになるべきか。
まず、ダウン症の人たちが共有している文化が体感出来る場である事。
「アール•イマキュレ」美術館が中心にあり、世界からも人々が訪れる。
自然や農場がある環境。
作家たちのアトリエや家。訪れる人の宿泊施設。
作家たちが創るカフェ。
そういったイメージがパンフレットに書かれていると思う。
ただ、これは理想郷なのではなく、
具体的にダウン症の人たちと接してきた中で生まれたイメージだ。
実際に現在おこなわれているアトリエでも、
彼らの出すお茶にホッとしたり、彼らの作品に感動したり、
彼らの言葉や存在に癒されたりして帰って行くお客さんは多い。
人が平和になれる場所。
人が平和を見つけられる場所。
自然や人や多様性と調和する環境。
人間本来のリズムと感覚を取り戻せる場所。
それがダウン症の人たちの文化であり、
それがダウンズタウンとなる事が理想だ。
ダウン症の人たちの生まれ持つ感覚を文化として、人類の価値として、
提示し、学べる環境は世界に類を見ないであろう。

誤解を受ける事も多いのであえて書くが、ダウンズタウンは施設ではない。
形だけ整えて、箱だけ作るのならすぐにある程度出来るだろう。
だが、世の中に溢れている、そのような既成の施設を
一つ二つ増やす事になんの意味があるのだろうか。
すでに沢山の施設があるが、それでは機能出来ないものをこそ掘り起こそうとしているのだから。
箱は出来たけど中味は何もないというものは多い。
ダウンズタウンはそうなってはならないし、
そのようなものになるなら、創らない方がいい。

私たちの社会は、今後ダウンズタウンを必要とすると思う。
人類は様々な在り方と共存するすべを身につける必要があるし、
平和や自然との調和を学んでいかなければならない。

私たちはまず、今の生き方、今の感じ方や考え方が全てではない事に気付くべきだ。
そして違う世界があるかも知れないと、感じてみたい。
そう思った時に、ダウン症の人たちの文化に気が付くかも知れない。
気付く、きっかけや機会をどんどん増やして広げていきたい。

ダウンズタウンというメッセージを掲げたと同時に、
反応してくれた人、共感して支援して下さる人、様々に協力してくれる人達。
そういう方々がすでに沢山いる。
こういった動き自体がダウンズタウンであると思うし、
ダウンズタウンは創っていくプロセス自体に希望と価値がある。

近道はないと思う。
目的のために手段を選ばないというのは、ダウンズタウンに相応しくない。
プロセス自体が美しくならねばならない。
なぜなら、ダウンズタウンは人類が創る平和のビジョンであり、
新しい生き方のことなのだから。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。