2011年9月1日木曜日

色とはなにか

この季節、自然の中では強く濃い緑があふれる。
新緑、紅葉、雪景色、それぞれいいけど、この時期の深い緑も好き。
森の中に入っていきたいという気持ちになる。
色彩って本当に不思議だと思う。
色彩をきっかけにして、人間は自然の奥にあるものを感知する。
自然は外にあるだけではなく、人のこころの中にもある。
例えばこの濃い緑がこころに響くことによって、私たちは内側にある自然を感じている。
外の自然と内面が共鳴する、引き金は音であったり、様々な感覚があるが、
色彩も重要な要素として存在している。

何日も密度の高い制作の場に入っていると、
街を歩いていても景色が色彩に満ちて見えてくる。
色彩が外部も内部も覆い尽くして、どこまでも広がっていく。

展覧会前に、作品選定に入っている時も、
一人一人が作品に向き合っていた時のイメージ自体が色彩となって迫ってくる。
一枚の絵の色だけでなく、無数の絵画や制作の場の情景自体が色彩とかして、
いっぺんに周りをかこむ。

世界は音やリズムで溢れ、色彩に満ちている。
私たちが普段感知していない無限の世界がそこにある。

ダウン症の人たちが描くものも、たしかに色彩のコントラストや豊穣さを感じさせる。
でもそれ以上に、どの色も似たように見える。
もっと言えばまるで一色に見える時すらある。
コントラスト以上に、似た色を重ねる特徴もある。
2色や3色の絵の具だけを使って、とても豊かな表現になったり。
今の濃い緑のような世界も描かれている。
色彩の対比よりも、その色とその色は本来一つだと感じさせられる時がある。

良く話しあ合うことだが、確かに彼らのバランス感覚は完璧で、
その色の隣にはその色しか有り得ないと思わせられることは多い。
でも僕はそれ以上に実はその色のとなりに、
極端な言い方だがどんな色がきても合ってしまうと言うところに、
彼らの魔法のもう一つの魅力があるような気がする。
新聞に絵がのった時、色彩の豊富さが特質の作家が白黒だったのに、
なにか感じさせる、むしろ白黒になってはじめて見えるバランスがあった。

勿論、色んな見方がある。
これは一つの見解に過ぎないし僕自身、
制作の場で彼らと居る時はそんな事は忘れている。
ただ、もしどんな色同士もあわせられる、間なり構成なりが背景となって、
そのリズムの中で制作されていくのなら、それはまるで彼らの生き方そのものだ。

ジョンケージは龍安寺の石庭について、
「多くの人は石がこれ以上ないくらい完璧に配置されている、そこにしか置きようがない位置に置かれていると賞賛するが、自分は全くその逆だと思う。あの空間の中の何処に石を置いても成立する。そのような空間であることこそが龍安寺の素晴らしさだ。」
と言うようなことを何かに書いていた。
何かそれに近い、空間生が彼らの作品にもある。

彼らのバランス感覚は先にあげた、この色の隣はこの色でなければならないという、
感覚も当然、鋭いものがあるのだが。

これも誰かから聞いた話で、正確なところは分からないが、
ある種の色弱のような症状で色と色の違いが見えないというのがあって、
実はそれは見えないのではなく、細かく見えすぎるということらしい。
情報が正確でないので申し訳ないが、このような話だったと思う。
普通の人は色と色が分かれたところから見えているが、
その症状の人は実はその色同士が同じ(波長なのか粒子なのか)状態の部分まで
見えてしまうらしい。
つまり色と色が違うものとして見えている方が、
フィルターが荒いと言うことだ。
人間は生きていくために必要な視覚を獲得して来たのだろうが。

なぜ、そんな不正確な情報をあえて書いたかと言えば、
そこに何らかの真理があるなら僕達の追求していることにも、
大きなヒントになりそうだからだ。

そのイメージの中で一色の世界というのがうかんだ。
深い緑に囲まれたと時のように。
以前、信州の山の方で生活していた事があったが、
その地方では雪がたくさん積もっている時に、雪が降り風も強くなり、
何らかの要素が重なったとき、四方八方が真っ白になって、
上下左右が分からなくなる事がある。
みんなはホワイトアウトと言っていたけど。
僕もホワイトアウトを体験した事がある。
白以外何もない世界だ。
生活の中では危険この上ないことで、何とか自分の位置を確認しなければならない。
白一色の世界はとても神聖で美しかった。

ダウン症の人たちも、社会的にあるいは環境的に、弱い、
劣っていると見られ安い部分は、物事の違いや分別に関わること、
分かり易く言えば、ものを分けて考えることが苦手というのがある。
これはある意味で言うと私たちの社会がものを一緒に見る、繋がりで捉える、
一つのものとして認識する、という能力が退化していることの裏返しと言える。

色で言えば先ほどの、「よく見えすぎる」という現象が「見えない」と
解釈されているのと共通するかもしれない。

一色の世界は、もしかしたら、とても豊穣でやさしい世界かもしれない。
僕達が忘れてしまっているだけで、
本当は自然も人間も、どんなものも一つで、繋がりの中で、
多様性を持ちながら存在している。

ダウン症の人たちにとっては、みんなが楽しんで自然に共存しているのが、
普通の世界だ。
それは、私たちにとってもそうなはずだ。

ところで、これも正確なことではないが、
テレビで脳科学の茂木健一郎という人が、
「人間に色覚が生まれたのはサバンナで熟れた果実を見極めるためだ」
と言っていて面白かった。

やっぱり、キレイとか美味しそうとか、本能が快を感じるのは、
生命を良いバランスに保つため。
彼らの作品が心地よいのは生命のバランス感覚。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。