2011年9月12日月曜日

自閉症とダウン症2

さて、前回の続きだが、
この項目では人間のこころの機能を2種類に分けて考えている。
それぞれの機能を代表しているのが、これまで書いて来た人達、自閉症の人やダウン症の人と言うことになる。
当たり前な事だが、どちらの能力の方がすぐれているという事では全くない。
2つの能力がそのまま、私たち人間を作って来たと言える。
2つとも人間が世界に対して、自然に対して、向きあうときの、
認識する、把握する時に働くこころの動きだ。
一方は分析的であり、一方は直感的である。
一方は過去へ向かい、一方は今という瞬間に向かう。
事物を一旦、分けてから記号化して認識する在り方。
物事の繋がりを全体でいっぺんに感じ取って、それに合わせる在り方。
現代はどちらかと言うと、記号的な把握の仕方に偏っていると言える。

私達がダウン症の人たちから学ぶべきは、
この現実を繋がりの中で認識していくこころの在り方だ。
彼らのこころを知る事は、私達の偏りや、歪みに気付き、
修正していく事にも繋がる。

ダウン症の人たちの持つ資質については、すでにこのブログでも書いて来た。
調和的感性、平和な在り方。直感の鋭さ。感覚の力。繊細さ。

ここではもう一方の在り方である、自閉症の人との比較を通じて考える。
例えば「食べる」という行為。
食べるとは自然を直接自分の中に入れてしまうという事でもある。
僕の友達でもある自閉症の人の場合、
チョコレートの中にアーモンドが入っていたら、
一旦アーモンドを取り出して、チョコレートと分けて並べる。
両方を認識してから、どちらかを食べる。
だから、色んなものが沢山混ざっている様なものには恐怖を感じて、
最初から手を出さない。
逆にダウン症の人の場合。
平日のプレクラスでもよく見る光景だが、彼らはよく何でも混ぜて食べる。
それとそれも混ぜるの?と思う様なものでも混ぜて食べる。
ちょっとした事だけど、面白い違いだと思う。
ダウン症の人たちは一緒になって纏まっていることの方が理解しやすい。
自閉症の人達の場合は、バラバラに分かれている方が理解出来る。
それぞれが自分の認識しやすい形に持って行くということだろう。

何かをしようと言う意志を伝えるとする。
僕の経験では、自閉症の人に対してはする行為だけを繰り返し伝える。
ダウン症の人には感情とか気持ちを伝える。
自閉症の人達は感情や気持ちが入った瞬間に認識出来なくなってしまう。
反対にダウン症の人たちは気持ちを切り離して説明してしまうと理解出来ない。

現実が記号化された瞬間に理解出来るのが、自閉症の人達。
現実が記号化された瞬間に理解出来なくなるのがダウン症の人達。

それぞれの得意とする事、苦手とする事を見ていくとこの事ははっきり分かる。

分けると分かる人達と、繋がっていると分かる人達。

僕達が最も見ている部分なので、絵画についても少し書いてみたい。
アトリエ・エレマン・プレザンはダウン症専門のアトリエなので、
普段はなかなか自閉症の人達の制作を見る事はない。
ただ、僕自身は個人的に自閉症の人を知っているし、
昔、寝起きを共にしてきた経験もある。
絵画に関しては、今は1人だけ僕が個人指導(本当はここでも「指導」的なことは何もしていないが)している人がいる。
自閉症の人達に絵を描いてもらった事は、何度もある。

ダウン症の人たちは、何も無く、何も決められていないところに、
描いていく事を得意とする。
自閉症の人達は何かがあったり、決められているものを描く事が得意。
決められているというのは、あくまで人にではなく、自分でだが。

形や記憶を忠実に写し取るのも、自閉症の人達の世界としてよく語られる。
ダウン症の人たちは、形や記憶は、それに伴う体験や雰囲気と重なった物として描く。

よく言われるのは、ダウン症の人たちの作品の方が抽象度が高いという話。
これは、私達のアトリエから生まれている作品をさしていっているのだろう。
僕は実は逆だと思っている。
自閉症の人達の作品の方が抽象的だと思う。
それは前に述べた、地図や暦と一緒だ。
地図も暦も現実にそっくりな部分があるが、現実そのものではない。
地図や暦は現実を極限まで抽象化したものだ。
あるいは記号化とも言えるだろう。
だから、地図や暦にはズレがない。現実にはズレがある。
ズレがないものに一度置き換えてというよりは、
ズレがない部分だけ切り取って構成し直した現実のモデルが地図や暦だ。
自閉症の人達が描く、記憶や現実の風景は正確なのではなく、
正確な部分だけ切り取って記号化したものなのだ。
なぜ、その様に描くのか、あるいは描けるのかは、
彼らがそのように理解可能なものにしなければ、現実を理解出来ないからだ。

逆にダウン症の人たちの作品は、彼らの見ている現実をそのまま描いている事が多い。
あれは彼らの中での現実でもある。
ある意味で言うと具象的とまでは言わなくとも、
見たまま、感じたままを描いていると言える。
例えば作品タイトルがころころ変わるというのがある。
ホテルだったのが、海になったり、街になったり。
僕はその絵がホテルであり、海であり、街であり、もっと色んなものなのだと思う。
実際にホテルを見ていてホテルだけを感じている事などあるだろうか。
そこにある風や空や音。雰囲気。その時、思い出した他の記憶。
一つの画面には一つのテーマしか描かないというのは、
私達の思い込みであり、一つの場面には様々な要素が混在している。
現実の中から、これだけが大切な現実というものを切り取るという行為は、
ある意味で抽象化、記号化された行為と言える。

繰り返すが、ここではダウン症の人たちの方に好意的に書いている訳ではない。
ただ、比較しそれぞれが生きやすい状況とはどんなものか考えている。

極めて簡単にではあるが、おおよそこのような相違点が彼らにはある。
細かくふれられなかったが、「分けてから再構成する」という事を、
見ていけば自閉症の人が描く作品の他の特徴も理解出来ると思う。
それぞれダウン症の人たちにはあまり見られない特徴だ。
画面をはっきり区切る。細部から描く(人を描く時に、人の小指から描く等)。
細部に注目する視点。それらが何処から来るのか、理解出来ると思う。

最後に一番大事なのは、彼らを私達や私達の社会がどのように受け止めていくかと言うことだ。
精神科医の中井久夫の著作であったと思うが、
あるしゅの統合失調症について以下の様な考えが述べられていた。
精神疾患の様な障害はなぜ生まれ続けるのか。人類という種は私達が思っているより、遥かに強いもので、もし必要のないと判断された障害があれば、長い歴史の中で確実に淘汰されていく。歴史を経て、存在している障害はではなぜ、なんのためにあるのか。
おそらく、人類が狩猟のような事で生活していた時、今の精神疾患をもつ人達が何らかの役割を果たしていて、その役割がなければ人類は生き残ってこられなかったのではないか。

その様なことが書かれていた。面白く、興味深い考え方だと思う。
いういった大きな視点から、これまで見て来た自閉症の人達や、
ダウン症の人たちを考えていく必要があると思う。

人類が生きていくために必要であった機能。
これからも必要な能力。
物を分け、吟味し、利用可能なものに作り替える能力。
物事の繋がりを感じ取り、様々な違いと共存していく能力。
過去を刻む事で、今を解釈する力。
今と言う瞬間の変化に感応する力。
それぞれが大切な能力だ。

私達は今、この時代に必要とされる能力を育てていかなければならない。
これからの時代は、共存するすべや、
平和であり続ける生き方が模索されなければならない。

人間にとっての2つの能力、こころの動きを見て来たが、
人間の在り方を見詰め直して、今失われつつある平和なこころを取り戻したい。
平和は外に求める以上に、自分のこころの状態として見出したい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。