2015年7月30日木曜日

全てを含む瞬間

8月1日から夏の制作に入る。
かなり暑い日が続いているので、気をつけて進めて行こうと思う。

場について色んな人に語る場面が増えている。
僕自身の語り方も変化していることに気がつく。
年々そうなって行くことだが、場は増々、人生と切り離せなくなっている。
場は人生そのもの。とても個人的で普遍的なもの。
生きることに真っすぐ向き合う以外に答えは無い。

前回のブログでも書いているように、何か精一杯なもの、
全身全霊で輝こうとしている姿に胸が打たれる。

そうやって場を生きて来た。
場は人生が凝縮されたもの。一瞬の中に生きて来た全てが宿る。
だからこそ言い切れる。生まれて良かった、生きて来て良かった。
勿論、まだまだ責任もあるし、やって行かなければならない。
でも中身だけで言うなら、
見るべきものは見た。見せてもらった。
悔いは無い。一切。
そう言い切れることを幸せに思う。

凝縮された時間の中で場が見せてくれる景色。
走馬灯のように全てが輝く。

この前から洞窟壁画が気になりだして、写真を見たりしていた。
そしてヘルツォーク監督の「世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶」の、
DVDを手にした。
これは映画館で見ているのだが、改めて強く惹かれている。

映し出されるショーヴェ洞窟の壁画に圧倒され、
何度も何度も見てしまう。
真っ暗な洞窟の奥から様々な動物達が迫って来る。
考古学的な興味とは全く別に、なんて凄い世界だろうと思う。
何万年も昔にこの様な圧倒的な世界が描かれている。

これは一体なんだろう、という問い以上に、
何がここまで惹き付けるのだろうか、と考えてしまう。

洞窟の闇の中で動物達が動き回っている。
何かに似ている、と思う。
何だろう。
そうだ、これはダブだ。そして友枝喜久夫だ。
夢のようでも走馬灯のようでもある、一瞬の中に凝縮された無限だ。

ダブのことも友枝喜久夫のことも何度か書いた。
ジャマイカで誕生したダブという音楽を僕はもうずいぶん聴いて来た。
ダブとは録音された音楽の音をある部分だけ引き延ばしたり、
差し替えたりして、元の音楽の流れとは違うものを作るという手法だ。
このやり方というか方法がダブとして語られるが、
本当はこうした方法で生まれた世界が何を表しているのか、ということだ。
一言で言えば、真っすぐに流れている時間や、一つの物語を、
それが唯一のものとして僕達は生きているが、
その向うにはもっと無限で計り知れない世界が広がっている、
と言う事実をダブは見せてくれる。
音楽の流れは止まり、無数の時間が入り込み、それぞれが動き出す。
確固とした形が崩れて、裂けて、その奥にある無限が顔を見せる。

人間の形をもって身体という固定されたものを使って、
その奥から形をなさない動きを感じさせてしまう友枝喜久夫の能も同じだ。

ショーヴェ洞窟の壁画。
様々な動物達がまるで動いているかのように、
岩の凹凸にそって何層にも折り重なって行く。
様々な動き、種類、いくつもの時間、それら一つ一つがリアルに、
個別に動きながらも無限の中に重ねられて行く。
全ては同時にあり、様々な時間が同時に動く。
ピグミーの歌がそれぞれの声を何一つ否定すること無く、
活かしながら、同時に存在させて行くように。
それは夢のようであり、走馬灯のようだ。
現実は一つではなく無限だ。

これが場という凝縮された時間の中で見えてくる現実であり、
そして人生なのだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。