2015年7月31日金曜日

ブルームーン

ずっと月を見ていた。
明日から夏の制作。連続でアトリエが開かれる。
どんな時間になるだろう。

いつだってそこに行けば、最高の時間がある。
場は決して裏切らない。そんな仕事をしたい。

ずっと憧れて来た場所がそこにある。

映画を見に行く。寄席へ行く。
祭りに行く。
そこにはいつでも夢があって、何か違うものが見られた。
見ている時間だけが全てを忘れて夢中になれた。

良い店や、旅館やホテル。

うっとりさせてくれる多くのもの。

人ってこんなに凄いんだ、こんなに素晴らしいんだ、と感じさせてくれる瞬間。

二進も三進も行かなくなって、どうすることも出来ない人達。
どこかで大逆転が起こらなければ嘘だと感じていた。

教えてくれた人達の傍へ行きたい。
楽屋裏でありスクリーンの向う側。
そこでは日々、汗と涙が流される。

場を見つけた時、僕はこれで行こうと思った。
たまたま、むいていた。センスもあった。必要な才能もあった。
その上で誰よりも努力を重ねた。
沢山勉強して、沢山練習して来た。

こころの深い部分での安心を持ってもらいたい。
満足して帰って欲しい。今までの自分よりもっと自分らしくあれるように、
その時間の中でリズムを見つけて欲しい。
そのためなら自分の命を削ってもいい。

どんな時でも美味しいものを作って、お腹いっぱいにして帰してあげられるように。
仕込みをした。準備をした。

喜んでもらえることを幸せに思う。

だから自分を裏切ることが一番出来ないことだ。

精一杯の、掛け替えのない場が目の前にある。

2015年7月30日木曜日

全てを含む瞬間

8月1日から夏の制作に入る。
かなり暑い日が続いているので、気をつけて進めて行こうと思う。

場について色んな人に語る場面が増えている。
僕自身の語り方も変化していることに気がつく。
年々そうなって行くことだが、場は増々、人生と切り離せなくなっている。
場は人生そのもの。とても個人的で普遍的なもの。
生きることに真っすぐ向き合う以外に答えは無い。

前回のブログでも書いているように、何か精一杯なもの、
全身全霊で輝こうとしている姿に胸が打たれる。

そうやって場を生きて来た。
場は人生が凝縮されたもの。一瞬の中に生きて来た全てが宿る。
だからこそ言い切れる。生まれて良かった、生きて来て良かった。
勿論、まだまだ責任もあるし、やって行かなければならない。
でも中身だけで言うなら、
見るべきものは見た。見せてもらった。
悔いは無い。一切。
そう言い切れることを幸せに思う。

凝縮された時間の中で場が見せてくれる景色。
走馬灯のように全てが輝く。

この前から洞窟壁画が気になりだして、写真を見たりしていた。
そしてヘルツォーク監督の「世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶」の、
DVDを手にした。
これは映画館で見ているのだが、改めて強く惹かれている。

映し出されるショーヴェ洞窟の壁画に圧倒され、
何度も何度も見てしまう。
真っ暗な洞窟の奥から様々な動物達が迫って来る。
考古学的な興味とは全く別に、なんて凄い世界だろうと思う。
何万年も昔にこの様な圧倒的な世界が描かれている。

これは一体なんだろう、という問い以上に、
何がここまで惹き付けるのだろうか、と考えてしまう。

洞窟の闇の中で動物達が動き回っている。
何かに似ている、と思う。
何だろう。
そうだ、これはダブだ。そして友枝喜久夫だ。
夢のようでも走馬灯のようでもある、一瞬の中に凝縮された無限だ。

ダブのことも友枝喜久夫のことも何度か書いた。
ジャマイカで誕生したダブという音楽を僕はもうずいぶん聴いて来た。
ダブとは録音された音楽の音をある部分だけ引き延ばしたり、
差し替えたりして、元の音楽の流れとは違うものを作るという手法だ。
このやり方というか方法がダブとして語られるが、
本当はこうした方法で生まれた世界が何を表しているのか、ということだ。
一言で言えば、真っすぐに流れている時間や、一つの物語を、
それが唯一のものとして僕達は生きているが、
その向うにはもっと無限で計り知れない世界が広がっている、
と言う事実をダブは見せてくれる。
音楽の流れは止まり、無数の時間が入り込み、それぞれが動き出す。
確固とした形が崩れて、裂けて、その奥にある無限が顔を見せる。

人間の形をもって身体という固定されたものを使って、
その奥から形をなさない動きを感じさせてしまう友枝喜久夫の能も同じだ。

ショーヴェ洞窟の壁画。
様々な動物達がまるで動いているかのように、
岩の凹凸にそって何層にも折り重なって行く。
様々な動き、種類、いくつもの時間、それら一つ一つがリアルに、
個別に動きながらも無限の中に重ねられて行く。
全ては同時にあり、様々な時間が同時に動く。
ピグミーの歌がそれぞれの声を何一つ否定すること無く、
活かしながら、同時に存在させて行くように。
それは夢のようであり、走馬灯のようだ。
現実は一つではなく無限だ。

これが場という凝縮された時間の中で見えてくる現実であり、
そして人生なのだ。

2015年7月28日火曜日

いつまでも輝く時間

暑さが続く中、アトリエ内での仕事ばかりだったので、
ここ数日あまり外へ出ていない。

土、日曜日は、この時期にしては驚く程の集中で制作しているみんながいた。
僕達も踏ん張ったのでかなり良い場になった。

保護者の方から相談を受けていて、心配していた作家がいたが、
まずは今の流れの中で出来るだけ安心出来る時間を創れたのではないか。

2日間、研修の方を受け入れた。
伝えられることは精一杯伝えた。

暑くて頭が回らず、仕事はきっちり出来るのだけど、
それ以外の時間はぼーっとしてしまってブログにまで辿り着けなかった。

以前、僕はダウン症の人たちを語る時に、
ゆっくりに見えるが、内面的なところから見ると、早い時間の中を生きている、
と言うような表現をしたことがある。

いつでも敏感で繊細な感性で物事の流れを感じとって行く姿は、
素直で正直で、素晴らしいと思うと同時に少し切なくなる。
こうやって感じて行くのに相応しい世の中ではないから。
見なければいけなくなる多くの現実を思うと、胸が張り裂けそうになる。

悠太と過ごしていると、いや、今の子供達を見ていると、
これに近いものを感じる。
僕達はゆっくりゆっくり大人になって来た。
でも、彼らの中を流れている時間はもうそうではない。
善くも悪くも、人生の早い時期に多くのものを見てしまうし、感じてしまう。
それは確実に現代と言う時代が生み出した一つの流れだ。

だからこそ、僕達はなるべく多くの、
あたたかく人間的でやさしい景色を見せてあげなければならない。

朝、何気なくニュース番組を見ていたら、
ある歌手の不幸な死をとりあげていた。
そのニュースを聞きながら、いつかこんな場面があったなあ、と感じた。
いうところのデジャビュというやつか。
この時間は昔確かにあったぞ、という感覚。

立川談志の書き残していた映画時評が「観なきゃよかった」という本になった。
編集も素晴らしい。
読んでいて、談志はやっぱり良いなあ、と思う。
世代的なものも大きいと思うけど、映画の趣味は全く違うのに。

ジーンケリーについて語った最初の文章を読むだけで充分価値がある。
素直な愛。惚れきったものを語る無邪気さ。

これを読んでいると、
今、「雨に唄えば」や「イースターパレード」を、観たいと思う。
観たいと思うけれど、暑い。2時間の集中力がない。

それでも頭の中でジーンケリーやアステアが鮮やかに踊り出す。
何度も何度も彼らの踊っている姿が駆け抜けて行く。
輝かしく、活き活きと。なんて素敵なんだ。
愛があって、喜びがあって、肯定的な感情をみんなに与えてくれる。
ありがとう、と自然に思ってしまう。

談志の落語、過剰な演出、やり過ぎな感じも、業の肯定も、
全ては喜んで欲しい、楽しませたい、これまでにない経験をさせたい、
と言う想いの結果ではないか。ある意味でサービス過剰にならざるを得ない。
ジーンケリーやアステアが全身全霊で輝いていたように。

そば屋でよく顔を合わせる人がいた。
僕達はたわいもない会話を楽しんだが、お互いについて何も知らなかったし、
知ろうともしなかった。
ただ偶然、時々顔を合わせる、人生のある瞬間にすれ違う人。
このまえ、そのそば屋に行くと、店主に「××さん、亡くなったそうです」と。
その時もあれえ、これはずっと前にあった場面だな、と感じていた。

ジーンケリーとアステアが頭の中で踊り続ける時間の中で、
CDでピアニストの演奏を聴いた。
新しい音だ、と感じた。
クラシックの演奏なのに、音楽の流れから音達が別のものを主張して、
文脈を離れて行く。
バラバラになったそれぞれの場面が、何故かよりリアルに迫って来る。
マイケルジャクソンの動きを思い出した。
身体がバラバラになって、それぞれが一場面をつくって行くかのような。
大きな物語の中に全てが収まっていたのが過去だとして、
現代の世界においては全てのパーツがバラバラになってしまっている、
と言うような纏め方をして良いのか、分からない。
でも、僕にとってもバラバラになった先で、それぞれをどう扱うのか、
というテーマがかなり大事な部分だと思っている。

ジーンケリー、
そしてアステアが今この瞬間を祝福している、ということがありがたい。
人はどうなるか分からない、特に今のような時代は。
それでなくともやがていつかは消えてなくなるのが僕達の宿命。
でも、だからこそ、全身全霊で輝こうとする。
人の輝きを見つけようとする。愛し合う。

しばらく熱に浮かされたような真夏の中でぼんやりしていた。
色んな人の姿が頭を過って行ったが、
やがて友枝喜久夫が現れるともなくやってきた。
友枝喜久夫の舞。走馬灯のように、夢の中を歩いて行く。
あるのか無いのか、居るのか居ないのか。
風のようでもあり、ほとんど形をなしている全てのようでもある。

そんな全ては幻。仮の姿にだと教えてくれているようだ。

こうして過ぎ去って行ったにも関わらず、
いつでも自分を助けてくれる景色のように、
生き続け、輝き続ける時間を創ること。
あれがあったから、あれが見られたのだから、生きて来て良かったと思えるような。

僕達の現場はそういう時間を目指している。
こころの中で生き続けるものは永遠だ。

2015年7月25日土曜日

昨日は特別支援学校の方の研修が行われた。
アトリエの活動を知ってもらいながら、
今度フラボアで展示される作品を額装したり、絵具の準備をしたり。

かなり深い部分に触れる話になったり。

次回は制作の場の映像を見て頂こうと思う。

大きな雷が鳴って、雨が降り続けた。

今日の東京もずいぶん静かだ。

遠いどこかの土地の何でも無い空や田園風景、
何故だか頭を過る。

夏休み前最後の土、日クラス。
暑いけれど、良い時間にしたい。

夏は駆け抜けて行く。


2015年7月23日木曜日

何も見ない

朝は雨。
今日は曇りか。灰色の空。
風の向きなのか、時々電車の音が聴こえる。
東京は静かになって来た。

もやっとしていて、涼しいとは言えないが、
ここ数日の猛暑で疲れ気味なので、これくらいの気候は休める。

小さな部分でなのだけど、身体も弱くなって来たと思う。
多分、気持ちの部分も。
別に気にする程ではないけど。
奥歯がまたとれてしまって、歯の治療をしなければならない。
この忙しいのに。

平日のクラスは昨日が最後で、今日から夏休み。
土、日曜日クラスはあと一回づつ。
8月は1日から連続で制作を行う。

明日アトリエで研修を受け入れるので、昨日は顔合わせ。
だったのだけど、すでにかなりお話ししてしまった。
真摯で誠実な方だったから。

次に繋ぐことや、他の環境で仕事される方に伝えて行くことを、
ここ数年ずっとやってきた。
この場だけであってはならないと思っている。

はるこが時々する夢の話は本当に面白くて深い。
出て来るイメージも凄い。
夢以外の起きている時間でも「画面」から色々見えるらしい。
誰々が画面から見えた、と呟いた数秒後にその人が入って来ることもある。
この前も欲しいマンガを探していたら、
次の日に「佐久間さん古い本屋さんに居たね。画面から見えたよ」と。
「何してた?」「マンガ見てたよ」

しばらく夢の話が続いていたので、
ある日「昨日はどんな夢?」と聞くと、
「何にも見なかった。真っ黒」。真っ暗だったかな?。
とにかく、ここが凄いところで、何も現れていない暗闇を、
彼女はしっかり見ていて自覚している。

実はこの意識の在り方が彼らの絵の秘密だと思う。
何故、あんなにもすぐに深いところまで行けるのか。
それは色彩や線やイメージから、
少しづつ深みに入って行くようなプロセスとは違っている。
むしろ、色彩や線やイメージが現れて来る、
何も無い深い場所に最初からいて、そこからイメージを生み出して行く、
というか自然に発生して来る、といった形に近いだろう。
勿論、いつでもそうであるということではなく、
そのプロセスを逆に行かなければならない時があり、
色と線とイメージから、あるいは筆の動きやそれ以外の振る舞いから、
そして会話から、辿って行って深みを見つけて行く必要もある。
そこを見極めるのが主にスタッフの役割だと言える。

それはともかく、真っ黒とか真っ暗の何も無い場所から、
ほとんど無限の流れが自然に生まれて来るという光景は、
普通の人ではなかなか経験出来るものではない。
それでも、それは人間にとっての根源的な在り方を表している。

はっきり言ってしまえば、暗闇とも何も無い場所とも言える何か無限なもの、
全ての源のような地点、そこを見なければ、
いくら形や言葉や、見えるものに意識を向けていても、
何一つ分からないとすら言える。
世界も宇宙も人の心も。

手放すと言うか、すっと最初に戻れる、と言うのは強い。
最初の場所に裸で立つことが出来れば、
そこから全ては自然に進んで行く。

これが創造性の源泉なのだから。

僕達はそこから来たのだし、いつでもそこへ立ち返れば良い。

「何も見なかったよ。真っ暗」という世界から、
活き活きと動き出す光や色彩や線。

僕達の抱える様々な問題も、
この何も無い場所に戻れなくなったことが原因にある。
だから制作の場とはそこへ立ち返って命を取り戻すことなのだ。

戻ることが出来る彼らと、帰り道を失って盲目的に争い続ける僕達の世界。
どちらが本当か。どちらが豊か。どちらが本質か。
今こそ、彼らの示すものから学ぶ必要がある。

2015年7月21日火曜日

波の音、潮の匂い。

厳しい夏ですね。

夏の制作は、こめるとか集中とかいう部分がやっぱり、
なかなか難しですが、その中でかなり良いせんで進んでいます。

とにかく、暑さ対策。

そんな中で奇麗な夕焼けがあったり、
東京の早めのお盆の茄子やキュウリに割り箸をつけて馬にして、
置かれているのを見かけたり、盆踊り、ゆかた、
商店街で見た阿波踊りがあったり。
夏だなあ。

セミはまだ鳴かないけれど。蛙も。蛙は田んぼが無いと聴こえないかな。

池袋のリブロ本店も閉店。
どんどん寂しくなる。

本屋さんで福井県の観光名所を紹介した冊子が無料で置かれていた。
その周りは福井コーナーで、先日亡くなった物理学者とか、
作家の舞城王太郎とか、水上勉とか、ドラマが話題の「天皇の料理番」の、
料理人の本とか、他にも色々、置かれていて、
福井県の奥深さが感じられる。
北陸新幹線が金沢止まりだということが、福井の人達にとってまたか、
という想いを抱かせていることを、僕は色んな人から聞いている。
不便なところだけど、だからこそ、福井は素晴らしい。
僕も何度か回ったことがある。
恐竜と縄文のことに興味のある方は行くべき土地だ。

福井と同じように石川県の中でも能登は未だに遠く不便だ。

能登半島の先っぽに立つと、朝鮮半島や中国、
そしてロシアが決して遠くないことが分かる。
福井と同じく能登にも縄文遺跡がある。

親戚の家に預けられていた頃や、宿泊施設で住み込みのアルバイトをしていた頃、
能登の海をよく見た。
連続して数多く行われる祭り。
車で僕を見知らぬ祭りに連れて行ってくれた女性。

小学校で交流したイルクーツクの人達。
彼らが帰りに飛行機をハイジャックし亡命に失敗し、
全員ピストルで撃たれて殺されたのだということや、
音楽を奏で陽気に踊っていたあの時から、楽器の中には武器が忍ばせてあったのだ、
という事実を後で僕達は知った。

僕らと同じ位の年齢の子供達のこと。
一緒に手を繋いで踊ったこと。
イルクーツクって何処だろう、どんな国だろう、と、
能登半島から海の向うを見て、ずっと向うに行けばあるのだろうか、とか。

もう一度、能登の先っぽまで行って、そこに立ってみたいと、時々思う。

金沢では本当に沢山のことがあり過ぎて、
そして今でもまだ言えないことが色々ある。
父のことや母のこと。あの場所にいた沢山の人達のこと。
忘れたいと思っている人も多いだろうし。

金沢に109がある事に驚く人が多い。
しかもかなり前からある。
あそこは祖父の家の近くで、09のある場所はもともと大神宮があったところ。
その時代は勿論僕は知らないが。
でもこの事実は重要だと思うし、ちゃんと記憶しておかなければならない。

みんな必死に生きていた。
ここには書けないけれど、かなり酷い目にあって来たけれど、
誰のことも本当に恨んだことは一度も無い。
みんなそうせざるを得ないほどに追い込まれていたのだから。

今僕は一つ一つの思い出や情景を掛け替えのない宝物だと感じている。
その中からどのパーツも失いたくはない。
多くの人が不幸だと思うような場面が、今の僕には輝くような何かとして見えている。
あそこに居られて良かったと思う。

いつも書くことだけど、過ぎ去って行った全ての時間が、
今でもここで生き続けている。

2015年7月18日土曜日

雲の隙間

制作前なのであまり時間がない。

大きな台風が時代の不穏な空気を暗示するようだった。

何かのため、誰かのためには、怒ること、抵抗することも必要だ。
今はそのことを思い出す時。
安保も原発も大きな流れの中でうやむやにされないように。
このまま行くと滅ぶという危機感を持ち続けなければならない。
大切なのは次の世代に何を残して行くのか。

男達の勘の悪さにはあきれるばかりだ。反応が鈍すぎる。
勿論、そうでない人達も沢山居るけれど。
でもこういう生命に関わる場面においては、
女性達の方が遥かに敏感だと最近特に実感する。

久しぶりに尊敬している方と長い時間お話しした。
こういう方達を見ていると本当に励まされる。
一つだけ。大切な言葉を。
本当のものはあまりにも普通すぎて多くの人に気づかれない。
だから評価されるものは良い悪いと関係なく、
目立つものインパクトのあるものだ、と。
そのとおりだと思う。
この普通すぎて気づかれない、というこのレベルの仕事をしたい。

いろいろあったけど、僕は良い場を目指して行く。
一回一回の制作に命を吹き込んで行く。
それが全てだ。

どこかで読んだので、間違っているかもしれないが、
ヴァイオリニストのチョンキョンファの言葉。
「私は学びの途上にいます。一つ一つのステージに命を賭けます。」

あの崇高な音は、この覚悟から生まれている。

今、大切なのは次の世代に、本当のものを知る経験や、
本質に触れる時間を、そのための環境を残して行くことだ。

大人はいつでも、仕事に向かう姿勢を、
生きる姿勢を見せて行かなければならない。

しばらく、内側から見えてくる情景を書いて来たが、
今回は外面的と言うか、外を問題として書いた。
責任ということも考えた。
またこれからも内面のことを書く。
そちらの方が僕達の仕事の部分だと思う。

グールドの演奏を沢山聴いた。
小プレリュードと小フーガ集は、グールドのスタジオ録音の中で最も好きなもの。
グールドは若い頃のライブの方が良いと思う。
でも、この作品は別格。
バッハの作品の中でも、演奏する人は少ないが、
ゴールドベルグや平均律クラヴィーアよりこっちの方が好きだし、
傑作だと思う。シンプルだけどエッセンスが詰まっている。
多分グールドもこの曲集が特に好きなのだと思う。
だから真面目に弾いている。
正確なリズム、明晰な構造、音の重なりが、螺旋のように刻まれていく。
まさしく宇宙の秩序のように。
いつの間にか人は消え、構造だけがそこに残る。
折り重なった音が快を与える。
我を忘れる、という気持ち良さ。

制作の場でもそうだけど、僕達は調和に向かって行く。
向かって行くのだ、ということは忘れてはならない。

今起きていること、そこに本当に向き合う必要がある。
戦争に反対したり、誰かを批判したりしているだけでは意味が無い。
平和と言うもの、調和と言うものも、選択し、意志を持って、
主体的に向かって行くべきもの。
争うのにある種の能力が必要なように、平和にも能力が要求される。
ぼーっとして放っておけば平和だと思っているのは、
それこそ平和ぼけと言うものだ。

そして、一人一人が理想を、平和を主張だけではなく、
実践、実証しなければならない。
今立っている自分達の世界において。

僕達は今日も場へ向かいます。

2015年7月16日木曜日

絶望しないこと

今日も暑い暑い一日だった。

直接的な表現は避けて来たし、
何かに賛成とか反対ということの意味の無さも知っている。
でも声をあげなければならない時がある。
黙っていてはいけない場面がある。

安保法案が強行で可決された。
今何が起きているのか、目を見開いていなければならない。

単純な一つのことしか言えない。
どんなことがあろうと戦争を拒否しよう。
子供達に触れさせてはならない。見せてはならない。
断固として争うことを拒絶する態度を教えて行くべきだ。

この不穏な空気の中で何が出来るのか。
無力ばかりが実感されるが、それでも諦めてはならない。

増々、人間の根源にあるものが求められる。
本当のものに触る経験が求められる。

制作の場は魂の居場所とならなければならない。

台風が近づいている。

昨日はデザイナーの佐々木春樹さんとフラボアの方達と打ち合わせ。
8月にフラボアの店頭での作品展示を予定している。
商品のデザインと同時に見て頂くので、
作品の選定と展示はデザイナーの視点で行って頂く。
佐々木さんにお任せしたが、作品を深く見る目と信頼出来るセンスの方だ。

僕にとってもお話ししていて響き合える人だ。
言葉を介さないで通じ合える稀な人。
希望に満ちた企画になるだろう。

今日はプレにあきこさんが来てくれた。
一年ぶりの再会。
春にも日本に帰って来た際に会えなかったけれど、連絡してもらっていた。
この場を、みんなのことを、忘れないでずっと大事にしてくれている。
去年の展示にも来てくれた。
くりちゃんもそうだけど、こういう仲間達がここには集まっている。
みんなの思いが一つの場となっていることを忘れてはいけない。

プレが終わった後、イサと少し話していて大事な大事な話になった。
かなり深いところに触れていて、何かに語らせられるかのようだった。

たった一つの情景が人を救うことがある。

僕達はこの世界の中で何か少しでもそういうものを見つけて行って、
人と分かち合って行きたい。
その場に居る人とは本当に奇跡のように出会っているのだから。

場と言うものを知っていたから、いや教えられ、導かれ、
見せてもらって来ていたから、だから希望を失わずに来られた。
世界は一つではないと知っているし、
過去は今でもここにあることも、死んだ人やいなくなった人が、
決して消えること無く存在し、語りかけてくれることも、
同時にたくさんの場所に自分がいて、自分が決して自分ではないことも、
全部、場が教えてくれたことだった。
沢山の声が僕に語りかけ、向かう方向を示して行く。
一緒に居る人、いた人は僕自身でもあるし、
むしろその人達が僕の身体や声を使って動いていることも知っている。

普段、見えないこと見ようとしないことが、
場の中では見えて来るとこと。
そのために耳を澄ましていなければならないこと。

この世において決して報われることが無かった人達を知っている。
絶望以外に無かった人達、今もなおその状況にいる人達。
僕達の関わるという仕事では手も足も出ないような場面。

何も出来ない現実。

そこで希望を失わずに一緒に居続けることが出来るのは、
もっと深い何かが存在していることを知っているからだ。
あえてこういう言葉を使えば、魂のレベルにおいてはどんな人も救われているから。
そこから見ることが出来れば、あるいはほんの一瞬であっても、
そのことに気がつくことが出来たなら、生きていることの価値が輝く。

もし浅いレベルでだけ世界を捉えるなら、
救われない人は沢山居る。
世界は不平等で不条理にみちている。
でももっと深く見て行ければ、そういうところまで掘り下げられれば、
僕達は決して絶望する必要は無い。
幸も不幸も、どんなものであれ、ある意味で全ては仮の姿に過ぎない。
仮りのもの。こころも身体も世界も。
正体はもっと違う姿をしている。
本質とか根源と僕が言うのは、目の前に現れている仮のものを通して、
その奥にある形をなさない存在を意味している。

人間も世界も、何かもっと凄いものだということが出来る。

成瀬巳喜男監督のたしか「流れる」という作品だったか。
その映画の中で様々な場面で背景から、どこか遠くで鳴り響く音のように、
ドーン、という太鼓の音が聴こえて来る。
その音が聴こえて来る度に何か不思議な遠い気分になる。
あの音は、あれはいったい何なのだろう。
あれは人生の瞬間瞬間に垣間見える生命の深淵なのではないか。

僕達の世界や命の背景には普段気がつかない、何か途方も無いものがある。
それは時にドーン、と聴こえて来る。

それはただただ、どーん、となるばかりで、それ以上言葉にはならない。
僕達が何か意味付けしようとしても捉えられないし、
決して自分のものにはならない。
あのどーんを聴く心地良さは、何も分からない、という感覚の懐かしさにある。

制作の場の中で、最も大切な瞬間はあの音を聴くことかもしれない。
そのとき、僕達は同じ音を聴いていて、放心したように、
あの懐かしい感覚に身を委ねている。
世界も、この自分も、誰ものでもないこと、
把握したりコントロールしたり理解出来るものではないということを。
僕達は我を忘れて、謙虚に身を委ねているだけ。
何か大いなるものが場全体を包んでいる。

命はかけがえがない。
大切にここに居よう。いつでもみんなと一緒だ。

2015年7月14日火曜日

見張塔からずっと

暑い、暑い。
夜も朝も。

今日は大事な打ち合わせがある。

ボブディランの古いCD。
誰かがくれたもの。

音楽を聴いていると、ふと思う。
こんなにも何もかもが過ぎ去って行って、
そして多くの人がもうこの世から消えているのに、
何一つ変わらないような感覚は何だろう。

初めて場に立ったその時から、
あれからずっとずっと同じことをして来た。
目の前に広がる光景に目を見開いて、ワクワクしながら素直に喜んでいたころ。

目上の人達からずいぶん可愛がられた。

やがて生意気になり、自分なりに見つけた答えに固執した時期。
仕事勘が冴え渡って何をしても的に的中し、
何処を突いても簡単につぼを捉えられた。
ちょっと本気で仕事すれば、見ている人達はすぐにうっとりした。
チヤホヤしてくれる女性達に囲まれ、誰からも非難されず、
言いたいことを言って、やりたいことをやって。
外から見たら調子に乗っているように見えたかもしれない。
でもあの頃が一番孤独だった。
歩みが止まっていることに気がついていたし。
身動きが取れない息苦しさを感じていた。

いくつもの夏。

全てはただただ過ぎ去って行くためにあるのだろうか。

昨日電車の中でランドセルを背負った小学生のいじめを見た。
お互いの力を試し、確認する時期が必ずある。
でも、そのいじめはそのようなものではなく、陰湿でひねくれたものだった。
人間の汚さを表すような。
「やめろ。やりすぎだ。」と注意したが、不快感が残る。
大人の世界そのものだから。

社会のこと、政治のこと、震災以後に起きていること、
意識的に発言しないようにして来た。
仕事を通してしか何も出来ないと分かっているから。
多くの虚しい言葉が飛び交っているから。

でも言って行かなければならないことはある。

子供達のことを考えなければならない。

あえてこの言葉を使うが戦わなければならない場面はある。
守らなければならないものがあるはずだ。

命に関わること、放射能のことを無かったことにしたり、
じわじわとしかし強引に戦争を肯定する方向へ向かったり。
そんなことを放置して良いのか。

外の世界のことでも、自分の内側のことでも、
向き合わない、逃げるということが一番恐ろしいことであり、卑怯なことだ。

僕達は制作の場において命と向き合う。
命とは響くもの。
この響きを聴いたことが無い人間は争う。
人間がどれほどの存在か知らないからだ。

醜いもの汚いものから目を背けない。
そこに向き合って真っすぐに進む。
もっともっと奥に光り輝くものがあるのだから。

きれいごとを言うつもりは無い。
実際に一つ一つの現場でそれを証明し続けるのみ。

僕達はずっとそうして来たし、これからもそうして行く。

そんなもの信じない、と多くの人が言った。
出来る訳が無い、と。
自分の幸せだけ考えれば良いのだと。
そう思う人はそう思えば良い。今でもそう思っている。

僕達は出来ることを知っている。
人間がこころの奥に持っているもの。
命の、魂の、輝き。

悔しい思いもいっぱいして来たし、挫折したまま居なくなった多くの人を知っている。
僕に託してくれた人達も居た。
沢山の涙と笑顔と、儚い想いも。
全部受けて、持って来た。

今言えることがあると思っている。
あったでしょ、やっぱり。
こんなに素晴らしい世界が広がっていて、
こんなに美しい風景を見ることが出来る。

ちょっと思っていたこともあるけれど、
ざまあみろとはおもう思わない。
でも勿体ないよ、と思う。
行けるのに。
人として生まれて、その可能性を充分使ってから死んで行こうよ、と。

僕達は同じ景色を前にしている。
一緒に見に行こうね、と思ってくれる多くの人達と歩んで行く。

照りつける陽射し。強い風。青空。
暑い、暑い。夏。

あ、今日のテーマに使った言葉は以前にも使った気がする。
でもいいか。たぶんこのフレーズが好きなのだ。

そろそろ花火やビーチを描く人がいるだろうか。
良い夏にしましょう。

東京です。

みなさんお元気ですか。
本当に暑いですね。

東京に帰って来ました。

三重では新たな繋がりの場となる小さなスペースを作ろうと、
家の一部を改装していました。
気まぐれミシンの会も充実でコースターが出来つつあります。
これはなかなかクオリティーが高いです。

悠太と家族との時間も有り難いものでした。

最近、改めてイサやきくちゃんの存在に感謝の思いです。
人生を賭けて選択して来てくれる仲間がいます。

きくちゃん、それから我が家の近くに最近、子供連れで移住して来た方が居ます。
ちかちゃん。
これから一緒に何か出来そうな予感がしています。

色んなことがありました。

いつの間にかの夏です。

いつだって簡単な仕事は無いですが、この時期の制作は難しいです。
どうしたってエネルギーは外へ逃げて行きます。
それは作家もスタッフも同じです。
ただ、この外へ開いた力は良い方向へ行けば素晴らしい作品に繋がります。
何度か質問も受けていて少しはテクニカルな問題も書こうかなと、
最近考えていました。
まだ少し後になるかも知れませんが。

東京アトリエは僕が離れている時間も、
しっかりと制作の質を守れるようになって来ました。
これでほぼ大丈夫だと思います。
イサはまだまだですが、基本はクリアしたと言って良いと思います。

僕が居なくても良いというところまでは行けると思っています。

作品整理をしながら、おやっ、今日は見え過ぎるな、と感じた。
そうすると色々と自分の駄目さが明晰になって、困ってしまった。

さてさて、またゆっくり様々なテーマを書いて行きます。
そして制作の場も夏らしい、この時期ならではの充実したものにしたいです。
暑さに気をつけながら。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。