2015年3月19日木曜日

どこまでも大きく深いもの

桜の季節が近づいて来ましたね。
みんなが、暖かくなって気持ちも晴れやかに、身体も軽くなるといいなあ。

ご連絡下さっている方が多くおります。
申し訳御座いませんが4月にお会いしましょう。

明日から今回は短いけど三重へ行きます。

ふみかちゃんの送ってくれる子供の写真を見ていて、
幸せな気持ちになる。
あかちゃん、凄く可愛い。
ゆうたの写真も毎日のように眺めている。

久しぶりにあきこさんからメッセージを頂いた。
今回は会えないけれど、ご家族みんな元気そうで嬉しい。

みんなが元気で、それぞれが想い合っていることの素晴らしさ。
有り難さ。

最近プレの時間にハルコさんが珈琲をのみたいと言うので、
僕が居る時はいれている。
珈琲をドリップしている時間は幸せを感じる。
飲むのも確かに好きだけど、
珈琲は誰かに飲んでもらうためにいれている時が一番かも知れない。
ゆっくりドリップしつつよい匂いが周りを包んで行く時間。

今月は制作の場も一段と深かった。
作家達にとっては厳しい状況の人も多かったが、
スタッフとしてこういう場面でどうあるべきか、
しっかりと入れるべきところに、正確に入れて来た。
こんなに狂いの無い仕事が出来るようになったのだから、
月日というのはやっぱり無駄ではない。
感覚だけで出来ていたあのスピード感は懐かしくもあるし、
もう一度あんな風に動けないかな、と思わなくはない。
でも、あの頃だったらここまでの正確さは無かっただろう。
落ちるところは落ちるけれど、良くなることころはある。

目の前に見たことも無い世界が鮮やかに展開し、
感覚は研ぎ澄まされて、瞬時に順応する、という時間があった。
毎日、夢を見ているようだった。
こころも身体も新たなものへ開かれて行く感覚にうっとりしていた。
自分が自分ではなくなって行くことが嬉しかった。
あの頃、学んだものは大きいし、今でもそれを追いかけている部分がある。

今日はたくさん人に会う予定だ。
出会いも本当に素敵なものだ。

来月、また場に立つ。
場に入るときは何も無くなるから良い。
何かが残っていては動けない。
今の社会、多くのものを自分の中に入れ過ぎて、自分が大きくなってしまう。
得すること、得ることばかり考えていると、人間はさもしくなる。
自分で作った世界と頭の支配によって身動きが取れなくなるのは自分だ。
そんな普通の人が場に入ると、全く動けないどころか、
違和感以外何も無くなってしまう。
人として何かがおかしくなってしまっている。
僕達は少なくとも場においては、得ることより捨てること、
何も持たないことの大切さを自覚する。
自分を意識すると、場における感覚が鈍ることも知っている。
動ける、ということの気持ち良さ。
もともと何も無かったのだから、そこに帰る癖をつけてしまった方が良い。

あくまでもイメージだけど、
何も知らずに裸で自然の前に立っている。
強い嵐や雷をじっと見、聴き、嗅ぐ。
全身の感覚を使って目の前の広大な世界を感じとる。
交流する。
気配をよむ。
山はどっしりそこに在り、海はどこまでも深く、森の底知れない光と闇。
風と流れる水と、どこまでも折り重なる無限。
何があるのか、そこでどう動くべきなのか。
そして、ただただ、すべてを超えてそこに在るものの凄まじさに、
震えるくらいに感動する。感覚を開いて立ちつくすことしか出来ない。
なんて凄いものが目の前にあり、自分をも包み込み、突き動かしていることか。
これが本来の人の姿ではないだろうか。
この人としての最初の場面を忘れてはならない。
いつでもそこへ帰って来る必要がある。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。