昨日は月の光が眩しいくらい。
インフルエンザも流行りだす頃、皆様もお気をつけ下さい。
それほど忙しかったり大きな仕事がある訳ではないのだけど、
細かなことがいくつか積み重なると、割に時間がいっぱいになってしまう。
もっと忙しいシーズンが来る前に準備したいことが沢山あるのだが。
制作の場はいつもながらに、いやいつも以上に充実した内容になっている。
先週から本格的に関川君の研修期間に入ったのだけど、
最初が肝心なので、僕はなぞるように丁寧に基本的な形を見せた。
彼も7年も来ているから、もう分かってるよと、思うかも知れないな、
とは考えたが、それでも原点の大切さはどれだけ強調してもしすぎることはない。
ここで僕が中途半端なものを見せたら、そのイメージが基準になってしまう、
という強い責任感で挑んだ。
土、日、月曜日、このラインだよ、と言い得る場になったのでは、と思う。
勿論、完成はない、でも今の時点での行けるところまでは見せたと感じている。
あそこを基準にしてもらって間違いはないだろう。
スタッフが10の仕事をしても(まあ、10はないだろうけど)、
人間相手なので上手く行くとは限らない。
でも、だからこそ10の仕事をいつも目指すべきだ。
基本の水準にあればあとはその人のスタイルで工夫して行けば良いと思う。
ただ、最低の水準に行くのが結構難しい。
そして、プレのクラスが終わって夕方から、
関川君の引っ越しを手伝った。
こういう時間が大切。
少ない仲間の中でやっているので、僕達は時に家族のように繋がっていく必要がある。
彼も結婚して家族と一緒に暮らすことになった。
荷物を運んだあと、もう一人手伝ってくれた関川君の友人が先に帰って、
僕達はラーメン屋で食べてから帰宅した。
彼の引っ越した場所の近くにたまたま僕の好きだったラーメン屋があって、
懐かしい場所だった。
うーん、残念ながら、味は若干落ちてたなあ。
美味しくはあるのだけど。
そうやって変わって行ってしまう。
どんな仕事も質を保ってこそだと痛感する。
繰り返すが、それは本当に難しいことでもある。
暗い夜道を歩きながら、その日も月が光っていた。
色んなことを言う人がいるだろう。
色んな考えがあるだろう。
どんな時でも、自分が出来ること、そのことによって、
人の笑顔が生まれることを一生懸命やり続けるだけ、
何があっても貫くし、どんな状況でも妥協はしたくない。
夜、ネーネーズのラストライブのCDを聴いた。
久しぶりだ。
色んなことを思い出す。
沖縄でもこのCDを聴いたのだった。
路上にいるおじさんが、しんみりと「本当に遠いところまで来てしまったなあ」
というようなことを言っていたのを思い出す。
それは場所の距離だけではなく、僕達は生まれてからずっと旅をして、
気がつくと本当に遠いところまで来てしまっている。
どんな時も一生懸命だった。
本当のことを知りたいと思ったし、見てみたいと思っていた。
あの頃、欲しいと思っていたものはみんな手に入れた。
見たいと思っていたものは全部見ることが出来た。
それでも、虚しさなようなものはある。
2年ほど前は人生で始めての葛藤の時期だった気がする。
今はそこは超えたと思える。
こんなところに留まっている訳には行かない。
もっともっと先まで行かなければ。
これも久しぶりにバックハウスのブラームスのコンチェルト2番を聴く。
今さらとは思うが、やっぱりいつ聴いても素晴らしい。
これこそが本物と思える数少ない音楽だ。
前に芸のことを少し書いたけれど、
僕は昔から職人の技や、芸能の芸に強いあこがれと尊敬心を抱いて来た。
特に日本の職人や芸能者は、本当に良い仕事をすると思う。
それこそが本物の生き方だと。
いくつか本を読んだりしていると、名人というのが出て来て、
強く心を揺さぶられる。
想像することしか出来ないけれど、
今、見たり聴いたり出来るような次元を遥かに超えた技なり、
芸なりがかつては存在していたのだろう。
おそらくは、
今いるような人達のレベルで名人という言葉を使ってはいけないのだろう。
そのような名人が存在して芸をやっていた時のことを想像すると、
例えば、今あるお能、狂言、歌舞伎とか、もっと他のものもそうだけれど、
それらはそんなものではないのかも知れない、という疑問を持ってしまう。
だから、本当の意味でのお能も歌舞伎も僕達は触れたことがないと思った方が良い。
それは例えて言えば、果物や野菜の原種はもっと違う味がするとかいうことと同じだ。
珈琲だって、昔はもっと美味しい豆があったという人達の話は、
単に懐かしいとか、昔は良かったというのではなく、
本当にそうだったのかも知れないと想像する。
名人ということだけれど、確かに世界共通だと思うが、
それでも東洋はこの名人というものを生む土壌が違うような気がする。
西洋にあんまり名人というような感じの文化がないからだ。
天才という言葉なら、西洋にもピッタリな人がいるだろうが。
単なるたとえだけど、セザンヌもピカソも優れた作品を創っただろうが、
名人と言う言葉はしっくり来ない。ベートーベンでもそうだろう。
ピカソが制作している映像の中でまばたきしていない、というのがあるが、
かつての歌舞伎役者は2時間も3時間もまばたきしなかったと言うし、
息も考えられないほど止めていられたと言う。
こういう話はおそらく本当だろうと思う。
それでバックハウスだけど、僕はこの人は名人だと思う。
それと同時にバックハウスは基準になると思っている。
バックハウスの演奏を良いと思う耳をもっているなら、
芸術や人生を感じる力があるのでないか。
少なくとも僕はバックハウスを良しとする人を信用出来る。
上っ面ではないからだ。
というより上っ面はあんまり良くないから。
バックハウスのピアノは無骨でゴツゴツしていて、
音は磨かれていないし、全く洗練されていない。
むしろそういうものを捨てている。
わざと下手に弾いていると言ってもいい。
さして上手くもなければ、細部にこだわったところもない。
特別な解釈も個性もない。はっとさせるような閃きもない。
ただスケールが大きいということだけは誰でも感じると思う。
不思議なのはただ、淡々と自然に音を重ねて行くだけで崇高な世界が描かれてしまう。
なにも特別なことはしていないのに、誰も出来ないところまで行き着く。
抽象的な表現になってしまうけれど、
例えるなら、ただ、その辺に落ちている石ころを積んでいくだけで、
そこに芸術なり人生なりの真実の姿が出現する。
芸術において感情に溺れない、醒めた視点を保つことは特に重要だし、
一定の水準にある人達はみんなそこはクリアしてはいる。
でも、バックハウスの場合はそこが徹底的だ。
全く情に流されない。
それでも、グールドの様に頭でっかちにならないし、
ポリーニの様に機械的にもならない。
バックハウスと比べれば、他のピアニストではやはりスケールが違う。
あそこまでいけば本当に何もしなくても良いのだろう。
たすこともひくことも必要ないのだろう。
僕達はそれが出来ないから、色んなことをして行くしかない。
久しぶりにこの音楽を聴いて、やっぱり良いものは滅びないと思った。
カールベームの指揮もウィーンフィルの音も流石に素晴らしい。
ベームは職人的に立派な伴奏をしている。
それでも、バックハウスだけが違う次元にいるのが怖いくらいだ。
外面ばかりに目がいく、
という流れが文化の方にまで来てしまっている今だからこそ、
こういう本質を極めたものを鑑賞すべきだと思う。
本当のものはシンプルだし、素朴でさり気ないものだ。
これ見よがしな、大声を張り上げているものに騙されてはいけない。