2014年1月11日土曜日

今日も

前回のブログで芸なんて書いちゃって、恥ずかしいかぎりです。
でも、真剣に自分の仕事に向き合って、
極めていくということが誰にとっても大切なことだと思っています。

これまで見えなかったことが見えてくる、
それが一番面白いなあ、と感じるこのごろです。

三重から戻って来る日、電車でよしことゆうたと3駅ほど一緒に行って、
その後、僕は名古屋へ、よし子とゆうたは反対方向へそれぞれ電車に乗った。
その夜、ゆうたからの電話で、
「ぱぱあー、電車、ずーっと乗ってたよ、さみしかったよ、ぱぱあ、ずーっと電車、電車乗ってたよう、さみしかったよう、ぱぱあ、さみしかったよ」
ゆっくりとやさしい声で、繰り返し繰り返し、話し続けたゆうた。
時々、その言葉が頭に浮かんで切なくなる。

そんなゆうたの喘息とアレルギーを見てくれている病院の先生が居る。
よし子がその先生と話したことを教えてくれた。
今の若いお医者さんはダメだと言う話から、
自分は昔ながらのお医者さんの家に生まれて、
小さな頃から両親が仕事のため、患者さんのために、何を犠牲にしても、
労を惜しまない姿を見て来た、と。
旅行先でも、電話があれば患者さんのためにすぐに駆けつける姿。
だから、自分にとってはそうするのが当たり前なのだと。
今の人達にはそれが無い、と。

そして、こういう姿勢のお医者さんが居るから、ゆうたもよし子も救われている。
もちろん僕も。

だから、きっといつか、ゆうたにも伝わってくれるはずだと思っている。

今は一緒に居られない時も多いけれど。

こんなこともあった。
三重の家は海が近いので季節や天候によっては波の音が聞こえたり、
塩の匂いがしたりする。
普段はそんなでもないのだけど。
何日か過ごしたある日、夜中に目が覚めた。
何だろう、と考えるとずっと波の音が聞こえている。
それに波が感じられる。
あれ、聞こえるなあ、としばらく耳を澄ませていて、気がついたが、
どうも波の音は聴覚で聞き取れる状況ではない。
音としては聞こえていないのだ。
でも確かに聴こえていたし、今も聴こえる。
それに身体が波を感じている。
ああ、何かが変わったのだと気がついた。
感覚のどこかが開いたのだろう。

制作の場でもいつも思うことだけれど、
はたして人は耳だけで聴いているのだろうか、目だけで見ているのだろうか。

感覚や知覚は謎なのだと思う。

制作の場に立つ時、僕には普段見えないものが見えるし、
聴こえるし、感じられるし、境界も限界も超えることが出来る。
まあ、正確に言えば、そういう時もあるということだけれど。
でもそうならないと、こころに寄り添ったり、感覚の動きを拾い上げたり、
共感したりといった基本的なことすら出来ないはずだ。

世界の動きを止めてしまっているから、こころが動かなくなる。
そこを適度にほぐして行ったり、無駄な荷物や圧を外すのが僕達の役割だ。
ものを見るのは目だとか、音を聴くのは耳だとか、
そんなことにとらわれていては何も出来ない。

よく人工的なものはダメで自然が正しいみたいなことを言いたがる人が居る。
僕にとっては自然が何を意味するのか、
人口が何を意味するのかさえ分からない。
そもそも、何処までが何なのかなんて分からないはずだ。

制作の場に立つ時は、善も悪も同時に見るし、
人のこころを自分のもののように認識したりするので、
何処までが自分で何処までが他人かなんて分からなくなる。
自然が必要な時はその場で自然を感じたり、自分が自然になったりする。

人は決めつけることで多くのものを見ないようにする。
それをやめてしまった時に、はじめて自由にこころが動き出す。
そこから先の世界は本当に豊かで楽しいものだ。

今週はこれから3日連続で絵画クラスです。
イサ(関川君)の研修もスタート。
今日もみんなで思いっきり素敵な場にしましょう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。