2013年4月25日木曜日

しんじの絵

今週はよし子もゆうたも、そして僕も体調をくずしぎみだったけど、
充実した良い時間だった。
懐かしい仲間達に会えたのも嬉しかった。
日曜日に吉川さん(NHK)の撮影が入ったので、
ミヒロにゆうたのベビーシッターを頼んだ。
ミヒロとは久しぶりだったけど、
やっぱりアトリエを知ってくれている仲間は安心する。
イサが帰って来て、本格的に月曜日から現場に入ってもらった。
その月曜日は栗ちゃんが来てくれた。
フクちゃんも大きくなった。
あきこさんも稲垣君もいて、以前からの仲間と新しい仲間が出会って、
アトリエの場を大切に思ってくれる人達がいっぱいだ。

いつもいつも書いていることだけれど、ここでの絆は本当に深い。
僕達はいつでも繋がっている。
今いる人達も、別の場所で頑張っている人達もみんな。
誰のことも忘れたことはない。

なによりも嬉しかったのは、イサの成長だ。
この調子で自分を信じて突き進んで欲しい。
彼には情熱と努力がある。これがあればあとは大丈夫だ。
技術的なことはそんなに問題ではない。あとでついてくる。
僕やよし子の方が時間的に長く続けてきたというまでで、
実際に場に入ってしまえば、そんなことは関係ない。
遠慮は無用。とことん進んで行って先の人達をおいて行くくらいでちょうどいい。

吉川さんの撮影も三重を中心に始まったが、
僕はテレビ関係が苦手で台本のあるような世界を信じない。
でも、他の誰でもなく長い付き合いの吉川さんなら、
こちらも一歩譲ってもいいかという気になる。
大切にしていることは確かに守りたいが、
大好きな人が一生懸命何かをしようとする時は、こちらも賭けてみる勇気が必要だ。
イサに思い切って任せる部分や、吉川さんに託そうというところがある。

相手を信じなければ何も変わらない。
相手を本当に愛していれば、失敗しても一緒にすすむ覚悟が出来る。

これまで、随分書いてきたつもりだけど、
まだまだ不十分なところもある。
書かないできたことの方が多いのかも知れない。
本当に核心にあることは、例えばしんじ君の絵を見て感じて欲しい。
彼の作品の世界に入ってしまえば、ここで書いているようなことなど、
ほんの些細なことにすぎない。
あのように描かれている世界は、誰しものこころの奥深くに実在する。
それこそ、世界の根源であり、本質であると思う。
ただ、そこまで辿り着くこと、その情景を見ることは、
容易なことではない。

僕らのように関わることを生業とする人間は、
どんな人であれ制作に向き合うときは絶えず、
あの地点へ共に向かおうとしている。
触れる感触や手触りを磨いて、
どうすれば相手の懐深くに入れるか感じとらなければならない。
一歩一歩、ゆっくり浸透して行くように入って行く場合もあれば、
一瞬でぐっと入って行く場合もある。

しんじの絵の様な情景は、彼には確かに見えているのだけど、
僕達も同じように見えなければ、作家たちは外に表してはくれない。
彼には見えて、なぜ僕達には見えないのか、知らなければならない。

あのように見え、あのように感じることは難しいことだ。
なぜなら、何度も書くが頭、知性や理性が邪魔をするからだ。
恐れや怒りや抑圧が、感覚を麻痺させているからだ。
人が感覚だけになりきった時、全身で感じているとき、
あのような世界に入ることが出来る。

意識が完全に澄んでいなければならない。
自分の身体からもこころからも遠く離れて、どこまでも研ぎ澄まされた感覚に。

言葉の通りに受け取らないでもらいたいが、例えるなら、
何も見えない真っ暗闇で、数キロ先の砂粒の落ちる音を聴くような感覚だ。
遠くで枯れ葉が擦れる感触を味わうような。

あるいは海の底を感じているような、
森の奥の気配のような、
あらゆる音が全くバラバラにそれぞれが自立して、それぞれで鳴り響いているのを、
同時に一つとして、自分の皮膚で感じ、毛穴の開くことさえ自覚しているような。
そんな、全身、全世界の感覚をもって立っている瞬間。

こんな風に書いてきたのは、勿論、全部比喩なのだけど、
そんなふうにしか言うことが出来ない世界がある。

それは、場に入って行く時、経験することであるし、
ここで生まれる絵の世界に見えることでもあり、
物事の本質にある何ものかのなのだと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。