2015年1月13日火曜日

3日間のアトリエ

3日、午前午後で6回の制作が行われました。
まずは制作の場で一年の良いスタートをきれました。

部分的な細かいことはともかく、全体として良いところに行けています。

作家の中には普段の生活では問題を抱えている人も、
この場では本来のリズムを問い戻す強さを見せています。

ぱっと戻れるところが彼らの強みでもある。
そして僕達スタッフはそういう部分を知っていて、
注意力を働かせつつも、時にズラしたり、外したりして、
作家がすんなりと入って行けるようにタイミングを逃してはいけない。

昨日は成人式。
商店街を着物姿で歩く人達ををみかけた。

決して良い時代ではない。むしろ危機を前にしている。
それでも、どんな時でも与えられた生命を全うして行くしか無い。

生きることは、日々の制作の場と一緒で一つ一つの出来事と対話して行くこと。
既にあるものが全てではなくて、それを自分がどう読んで、どう答えるか。

良いもの、悪いもの、どちらでもないもの、それを受け取って、どうしていくか。
生きるとは対話であり創造であると言える。

時々思い出す人がいる。
よしこが御茶ノ水の文化学院に通っていた頃、僕も何度が聴講させてもらった。
芸術学という授業をしていた先生が素晴らしかった。
多くを教えられた。
内容ばかりでなく、その先生の佇まいや生き方そのものが多くを伝えていた。
一言で言えば、美を生きるということ。

その授業の進め方はとにかく美しいものに触れさせるということで、
音楽を聴かせたり、映画の場面を見せたり、
時にはお菓子を配って味で何を連想するかとか、
どの味はどの映像に近いかとか、
その絵画から聴こえて来るとしたらどんな音楽か、とか。
解説するのではなく、感覚を働かせること、
それに美を人生として捉えることを伝えていた。
映画や音楽ばかりでなく、
すきやばし二郎という名前もその先生の話で初めて聞いた。

フランスのある映画監督のお話をされていた時、
その監督の発言に触れて、確か自分は美より現実の方、
リアルな人生の方を描きたいと言う発言に対して、
それは違うと仰って、
美を介在しなければ現実にも人生にも触れることは出来ない、と。
この言葉は本当に凄いな、と思う。
実感を持ってそうだろうなと思えたのは、
その言葉を聞いて10年も経ってからだと思う。

一つの音楽が、一つの映画が、一つの絵画が、それらを本当に生きた時、
見えて来るのものの大きさ。
それに触れるためにこそ生命があったとすら感じる瞬間。

美は観念ではないし、単なる好みでもない。
趣味でも楽しみでもない。

生命と直結した厳粛なる何ものかだ。

外から鑑賞する、比較する、分析するという在り方とは対極の、
美を生きて行くという姿勢に多くを学んだ。

美を生きる覚悟と言えば、洲之内徹の文章もそうだった。
今より読書がもっともっと芯まで届くように響いていた頃、
沢山の本を読みあさっていた。
その後、繰り返し読んだ本とそのまま忘れて行った本がある。
洲之内徹の文章は本当に何度も読んで、強い影響をうけた。

生き方として一筋縄ではいかない人だっただろうし、
ある意味で矛盾の塊のような人だっただろう。
批判する人も多いと思う。
でも、いつでも真剣で命を賭けて美を求める姿勢は凄いと思う。

一枚の絵が人生の全てだったりするような、
掛け替えのない出会いや瞬間の奇跡を、あれほど深く生きた人は少ない。

文章も凄い。
独自の文体で誰も真似出来るものではない。
いつかあんな風に書けたら良いなと思う時もあるが、
それは不可能でだからこそ違う方向性に進もうと思う。

達人と言うような感じで、のらりくらりのスタイルで話し始めて、
いつの間にか大切な場所まで連れて行かれてしまう。
つかみ所のない人だけど、連れて行かれる先には美が直感されている。

美しいものに出会うことで、人生も命も深まって行く。

そこへ行くためにどんな瞬間も真剣勝負で選択し判断して行く。

僕達は一緒にここにいてこの場を創っている。
いつでも全ての人がプレイヤーだと思う。
今あるもの、誰かが言ったもの、それが全てではない。
それを受けて、あなたはどう感じますか?どう答えますか?
という問いかけとして世界を見て行きたい。

僕達にとっては制作の場で作家達と共に創って行く時間は、
生命そのものであり、人生そのものであり、そこにこそ美がある。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。