三重へ行ってきます。
ブログはしばらくお休みさせていただきます。
この2日間、とてもとても深く良い場が生まれた。
作品ももちろん素晴らしいものがたくさん。
この時期は身体面、精神面ともに不調の人が多い。
それでも制作の場に入れば出来ることはいっぱいあるし、
むしろ深い集中に繋がることも多い。
場と言うのは誰のものでもない、文字通りみんなものもの。
中心に立つ人間はみんなの夢を背負わなければならない。
しばらくイサに託して行くので、
一緒に出来る期間には本気の場をいっぱい見てもらいたいと思ってやってきた。
特に今知ってもらいたかったのは、正確な時を刻むということだ。
単純に言えば、手抜きしないということかも知れない。
確実に点を打つこと、どんな難しい場面でも出来ることを正確に実行すること。
その上でどっしり構えて終わりまで見守ること。
打った点が芯まで届いているのか、見極めること。
ぶれない揺れない、こころの構えを大切にということだ。
季節は変化し、心も身体もその影響化にある。
条件はしっかり見ておく必要がある。
全てには良い面も悪い面もあるのだから。
日曜日の午後のクラスで半年に一度くらいだろうか。
怖い話大会がある。
司会はさとちゃんのときとしんじくんの時がある。
これ、話してるうちにみんな深いところに入って来て、
怖いかどうか、と言うよりは、
何かしら不思議な気になる記憶やこころに関わる話になって行く。
面白いことに、ここで思い出すことや、初めて理解することが沢山ある。
不思議な記憶の数々は普段こころの奥深くにあって、
意識のレベルにはのぼってはこない。
順番に離しているのだけど、途中からは司会者が決めた人の話が多くなる。
今日はしんじ君が終わらなくなって、というか終われなくなって、
僕に何度もふってきたので話すことが多かった。
お陰で色んなことに気がついた。
不思議で面白い体験だった。
小学校の頃、転校することが決まった男の子がいて、
10人くらいのメンバーで彼の新しい家に行くというイベントをひらいた。
かなり遠い場所だったはずだけど、みんな自転車で出発。
僕はそのころ、自転車がなくて友達の兄弟のを借りて行った。
出発前に友達のおばあちゃんから不思議な話を聞かされて、
それだけでも別の話が出来るくらい。
その時間からちょっと不思議な感じがあったのかも知れない。
一緒に集合場所に行った友達と話していた情景が一番鮮明に記憶にある。
それは新しい味のガムが発売していて、
そのガムが美味しいのだけど、柔らか過ぎてつい飲み込んでしまう、というもの。
僕も飲んでしまったと思う。
あれ、なんでなんだろう、
と話しながら当時の金沢としては珍しい雲のない青空の下を走った。
犀川の川沿い。汚れたガード下、砂利道。
途中でグループがいくつかに分かれて、人が減って行く。
それからが変なのだ。
行く途中までの道は覚えているのに、はたして目的地に着いたのかとか、
どうやってそのあと帰って来たのか、全く記憶が途切れてしまっている。
ぽっかり穴が空いてしまったように。
そして転校することになった友達は一体どこへ行ってしまったのか。
しばらく経って、一緒に行ったメンバー数人とは話したと思う。
誰一人、記憶がない。
一体あの一日の旅は何だったのか。
何度か思い出そうと試みてみたことがあった。
でも、記憶は全て断片的で、その一つ一つの場面は鮮明に覚えているのに、
記憶に連続性がない。
何よりもある瞬間からの記憶が全く抜け落ちてしまっている。
こういう話をいくつか思い出していると、
命とか記憶とか人生と言うものはそもそも分からないもので、
あの子供の頃のぽっかり空いた穴のような場面が所々にあると思う。
しかもそこに大切な何かがあったり、本質的な何かがあるような気がする。
僕達はずっとずっと旅をしている。
もっと見てみたいしもっと知りたいと思っている。
でも、分からないことだらけで、どこへ向かっているのかも分からない。
一つだけ言えるのはここで分かち合える仲間と出会えていることで、
この時間がどれほど掛け替えのないものなのか、ということ。
今、こうしてここにいられることが嬉しいし、
一緒に居てくれる人達が楽しんで欲しいと思う。
いつでも未知の世界が目の前に広がっている。
いつでも無限が僕達に立ちはだかる。
もう少し進んでみたいと思う。
ちょっと怖いけど、ちょっと不思議な感じがするけど、
行ってみようかな、と思う。
ここでみんなと話していると、僕も、私もこんなことがあった、
あるいはこんなことを想像した、と確認し合っている。
みんなで一緒に絵に向き合っているという場だからこそ、
おきることなのではないだろうか。
2014年11月10日月曜日
2014年11月8日土曜日
大切な時間
三重へ行く前なので東京の諸々の用事を終わらせています。
このブログもしばらくお休みさせて頂きます。
書けば書くことも出来るのですが、
少し時間を置いて内容を深めた方が良いと思って、
東京にいる間だけという形にしています。
急きょ、最近の作品を少し出しておかなければいけなくなって、
たくさん見ていたのだけど、2時間くらい集中していただけで足や腰が痛い。
立ちっぱなしが疲れるみたいだ。
今まではどうってことなかったのだけど。
この土、日はしっかりと挑んで行きたい。
これまでは責任感の方がどちらかと言うと強かったけど、
ここ最近は場に立てる幸せを感じている。
有り難いことだなあ、と。
思えば本当に僕にはこれしか無いのだし。
それを必要としてくれる人がいることは、
自分が存在していて良いと言われていることでもある。
感謝と同時にしっかりやって行かなければ、という思いだ。
ずっと聴き続けているピグミーの人達の音楽が頭を、身体を駆け巡っている。
途方にくれるくらいに素晴らしい。
全身の細胞が目覚めだし、活動しだし、喜んでいる。
こころも身体もあの世界を知っている。どこか記憶に響くものがある。
歌はどこから始まるのか、何人かが同時に、あるいは誰か一人が、
その声に重ねて他の人が歌う。更にまた別の声が加わる。
何層にも何層にも。
それぞれの声があちこちから重なって行く。
無限に折り重なった声が、空間を揺らし場が立ち上がる。
奥行き立体感、そしてここであり彼方であるという独自の空間の感覚。
今この瞬間であり、遥か昔であると言う独自の時間感覚。
途轍もなく遠くからであり、この場の生々しさでもあるという独自の距離感。
場は歪みうねり、動き出す。
海のようでも森のようでもあり、そのどちらでもある。
騒々しいがまたどこまでも静けさが漂っている。
一人一人は自分のいるべき場所を把握している。
声を聴き、全体を認識し、自分のいるべき場所を見つける。
呼びかけに答える。
それぞれが投げかけ、投げ返す。
場はもう一つの身体でもある。
一人一人は場と言う身体の細胞の一つだ。
僕達も日々、場に入る時、このようにお互いの声を聴き、お互いの声を活かす。
奥行きが生まれ、全体が生まれる。
やがて無限が顔をだす。
僕達は包まれ、どこまでも安らかになる。
その時、僕達は一人一人の個人ではなく、場の一部として、
場が自分を活かしてくれる。
そこでそれぞれが一番深く繋がることが出来る。
だから、場を離れても僕達は他人ではなくなる。
感じ合うこと。響き合うことこそが愛情の本当の表現だと思っている。
それは一緒に音楽を奏でるようなもの。
ピグミーの人達の音楽はそれを最も理想の形で示している。
一種類の音ではなくて、たくさんの音があればあるほど、
重なったときの気持ち良さは高まって行く。
僕達の普段の場でも出来るだけ多くのことを認識していることが大切だ。
しっかり見ていること。しっかり聴いていること。
しっかり感じていること。
すべては今この瞬間にしかないのだから。
どんなものでも大切にしなければならない。
今年も制作の場はあと数回しかない。
大切にしていきたい。
このブログもしばらくお休みさせて頂きます。
書けば書くことも出来るのですが、
少し時間を置いて内容を深めた方が良いと思って、
東京にいる間だけという形にしています。
急きょ、最近の作品を少し出しておかなければいけなくなって、
たくさん見ていたのだけど、2時間くらい集中していただけで足や腰が痛い。
立ちっぱなしが疲れるみたいだ。
今まではどうってことなかったのだけど。
この土、日はしっかりと挑んで行きたい。
これまでは責任感の方がどちらかと言うと強かったけど、
ここ最近は場に立てる幸せを感じている。
有り難いことだなあ、と。
思えば本当に僕にはこれしか無いのだし。
それを必要としてくれる人がいることは、
自分が存在していて良いと言われていることでもある。
感謝と同時にしっかりやって行かなければ、という思いだ。
ずっと聴き続けているピグミーの人達の音楽が頭を、身体を駆け巡っている。
途方にくれるくらいに素晴らしい。
全身の細胞が目覚めだし、活動しだし、喜んでいる。
こころも身体もあの世界を知っている。どこか記憶に響くものがある。
歌はどこから始まるのか、何人かが同時に、あるいは誰か一人が、
その声に重ねて他の人が歌う。更にまた別の声が加わる。
何層にも何層にも。
それぞれの声があちこちから重なって行く。
無限に折り重なった声が、空間を揺らし場が立ち上がる。
奥行き立体感、そしてここであり彼方であるという独自の空間の感覚。
今この瞬間であり、遥か昔であると言う独自の時間感覚。
途轍もなく遠くからであり、この場の生々しさでもあるという独自の距離感。
場は歪みうねり、動き出す。
海のようでも森のようでもあり、そのどちらでもある。
騒々しいがまたどこまでも静けさが漂っている。
一人一人は自分のいるべき場所を把握している。
声を聴き、全体を認識し、自分のいるべき場所を見つける。
呼びかけに答える。
それぞれが投げかけ、投げ返す。
場はもう一つの身体でもある。
一人一人は場と言う身体の細胞の一つだ。
僕達も日々、場に入る時、このようにお互いの声を聴き、お互いの声を活かす。
奥行きが生まれ、全体が生まれる。
やがて無限が顔をだす。
僕達は包まれ、どこまでも安らかになる。
その時、僕達は一人一人の個人ではなく、場の一部として、
場が自分を活かしてくれる。
そこでそれぞれが一番深く繋がることが出来る。
だから、場を離れても僕達は他人ではなくなる。
感じ合うこと。響き合うことこそが愛情の本当の表現だと思っている。
それは一緒に音楽を奏でるようなもの。
ピグミーの人達の音楽はそれを最も理想の形で示している。
一種類の音ではなくて、たくさんの音があればあるほど、
重なったときの気持ち良さは高まって行く。
僕達の普段の場でも出来るだけ多くのことを認識していることが大切だ。
しっかり見ていること。しっかり聴いていること。
しっかり感じていること。
すべては今この瞬間にしかないのだから。
どんなものでも大切にしなければならない。
今年も制作の場はあと数回しかない。
大切にしていきたい。
2014年11月6日木曜日
ポリフォニー
曇り。静かに雨が降ったり止んだり。
しばらく東京を空けるので、道具の注文とか早めの払込を済ませた。
物価が上がっていますね。
イサも良い感じだし、今度は少し安心して行って来ることが出来る。
もうすぐ、悠太に会える。あれから2ヶ月近くも経ってしまった。
毎日写真を見ながら暮らして来た。
前回、タルコフスキーのことを書いた。
制作に向かうという僕達の日々や、作家達の示している根源的な創造性を、
見て行った時、美や芸術を真っ正面から捉えざるをえない。
ここでも何度も書いて来たが、
生命にとって必要がないものが長く残ることはないと考える。
美や芸術だって食物と同じくらい必要な何かなのだと思う。
生命に直結しないものは、はっきり言ってしまえば無用なものだ。
そこで快、不快で判断するのが正しいということも書いて来た。
不快は生命を害するものであり、快は生命を活かすものだと。
美は人に快を与えるものであるはずだ。
では何故、美や芸術といったものが生命にとって必要なのか。
僕は思うが、人間とは絶えず感覚や知覚を広げなければならない存在だ。
何故かと言うなら、人間は自ら限界をつくり、偏った世界の中で、
感覚も知覚も閉じてしまう性質があるからだ。
ほっておくと、見えなくなるし聴こえなくなる。
本来はもっと多様で豊かであるはずの世界を狭めてしまう。
だからこそ、感覚を開くことや、知覚を広げることが日々必要となる。
それは食べることで生命が維持されるのと同じ位に重要なことだ。
人は感動したがるが、何故感動する必要があるのか。
それは今言ったような理由で感動で心を動かさないと、閉じた知覚は固まってしまう。
美や芸術が知覚を変える力や、感覚を目覚めさせる力がなければ、
それは本来の価値から程遠いものだと言える。
いや、もしかすると芸術だけではなく、科学や学問だって同じことかも知れない。
キュービズムとは何だったのか、相対性理論とは何だったのか、
時代と共に新しい概念が沢山生まれて来るのは何なのか。
それらは条件反射のように固まってしまった感覚や知覚を変えて、
本来の世界の多様さ豊かさをかいまみせようとして生まれたものだ。
新しいものに出会ってみたいと思い、
新しいものが生まれた瞬間に心が動くのはこのためだ。
前置きが長くなってしまった。
今日はポリフォニーのことを書きたい。
と言ってもポリフォニーは西洋音楽の概念であって、
僕がイメージしているのはもっと複雑でもっと原始的なポリフォニーのこと。
西洋音楽でいうところのポリフォニーとは多声音楽、
つまりはいくつもの違った線がそれぞれの声の流れに向かいながら、
重なって行くというようなものだ。
特徴的なのは主役となるラインが存在していないことで、
それぞれがみんなバラバラに動いているようで重なって来るということだ。
これまでもここで書いて来たことだが、様々な表現において、
多様なものが同時に動いている、という次元が扱われることが多い。
それが一つの究極の形なのかも知れない。
僕が時々書いて来た、沢山の時間を同時に生きるということも、
あるいは様々な経験が降り積もってその場で動き出すということも、
バラバラなものが同時に動き出すということも、ポリフォニーのようなものだ。
西洋音楽においてはフーガとか対立法とか、
たくさんの場面でポリフォニーが出て来る。
ルネッサンスやバッハは代表的な例だろう。
ただ、そこで言われる多声音楽、ポリフォニーというのは、
いかに複雑に見えても計算されたものであり、書き記すことが出来るものだ。
もっともっと複雑で即興性の高いものが存在している。
例えばピグミーの音楽。
これが頭にあったので最初にポリフォニーという言葉で言って良いのか迷った訳だ。
ピグミーの音楽は西洋のポリフォニーより遥かに多様性に満ちている。
ある意味でポリフォニーの原型と言えるかも知れない。
ここ数日、寝る時にはピグミーの音楽を必ず聴いている。
集中して聴き続けて来たので、今もずっと頭の中で鳴り続けている。
久しぶりに音楽に夢中になっている。
初めてピグミーの音楽のCDを聴いたのはもう10年近くも前だろう。
面白いと思ったし、奇麗だと思った。そして、時々聴いたりもしていた。
でも、本当の意味での出会いはまだだったのだろう。
音楽は良いなくらいのもので僕の前を通り過ぎていた。
お陰でずいぶん遠回りしてしまった。
もっと早く気づくべきだった。
これほど「場」に近いというよりは、「場」そのものな音楽は他に無い。
ほとんど無限に近い彼らの声の重なりを聴いていると、
途方も無い気分だ。まるで自分が誰だか分からなくなる。
全てが細部まで活き活きしていて、同時に鳴り響き、響き合う。
多様さ複雑さが多いほど全体の境界が存在しなくなる。
本当に場そのものだ。
これはあらゆる音楽の究極でもあるし、芸術ばかりでなく、
コミニケーションや、人間の在り方の究極でもあるとおもう。
やっぱりか、でもあり、なーんだ、でもあるのだけど、
努力して人が積み上げて来たものなんか、いったい何なんだろうと思わされる。
だって彼らはすべて持っているのだから。
ピグミーの音楽を聴いていると、人間がどんな存在なのか分かるし、
もっと言えばどうあるべきなのか、とかこの世界や宇宙の本当の姿が見える。
彼らは歌うことでそれを日々確認して響き合っているのだろう。
そして、何よりも素晴らしいのは、ここには特別な存在がいないことだ。
歌っている人達はみんな平等だし、プロもいない。
特別な努力だとか、特別な才能というものが必要だというのは、
僕達の世界の思い込みなのだと分からせてくれる。
そうかあ、やっぱりそうなのかあ、と感動する。
こんなに豊かで、全部持っている人達が生きている。
何かを創ったと思ったり、どこかまで行けたと思うのは錯覚なのだなと思う。
ある意味で最初から全部あるのだと、彼らの存在と音楽が教えてくれる。
たくさんの声が混ざり合っているのを聴いていると、
森が歌っているようでもあるし、宇宙の声だとも思う。
どこか、遠い場所に連れられて行くようで、
元の場所に帰って来たような懐かしさもある。
僕達が場に入る訳も教えられた気がする。
彼らが歌い、響き合い、世界と同化して行くのと同じように、
僕達も日々、場に入り、そこで喜び合う。
それが人として産まれて生きることの意味なのだと思う。
しばらく東京を空けるので、道具の注文とか早めの払込を済ませた。
物価が上がっていますね。
イサも良い感じだし、今度は少し安心して行って来ることが出来る。
もうすぐ、悠太に会える。あれから2ヶ月近くも経ってしまった。
毎日写真を見ながら暮らして来た。
前回、タルコフスキーのことを書いた。
制作に向かうという僕達の日々や、作家達の示している根源的な創造性を、
見て行った時、美や芸術を真っ正面から捉えざるをえない。
ここでも何度も書いて来たが、
生命にとって必要がないものが長く残ることはないと考える。
美や芸術だって食物と同じくらい必要な何かなのだと思う。
生命に直結しないものは、はっきり言ってしまえば無用なものだ。
そこで快、不快で判断するのが正しいということも書いて来た。
不快は生命を害するものであり、快は生命を活かすものだと。
美は人に快を与えるものであるはずだ。
では何故、美や芸術といったものが生命にとって必要なのか。
僕は思うが、人間とは絶えず感覚や知覚を広げなければならない存在だ。
何故かと言うなら、人間は自ら限界をつくり、偏った世界の中で、
感覚も知覚も閉じてしまう性質があるからだ。
ほっておくと、見えなくなるし聴こえなくなる。
本来はもっと多様で豊かであるはずの世界を狭めてしまう。
だからこそ、感覚を開くことや、知覚を広げることが日々必要となる。
それは食べることで生命が維持されるのと同じ位に重要なことだ。
人は感動したがるが、何故感動する必要があるのか。
それは今言ったような理由で感動で心を動かさないと、閉じた知覚は固まってしまう。
美や芸術が知覚を変える力や、感覚を目覚めさせる力がなければ、
それは本来の価値から程遠いものだと言える。
いや、もしかすると芸術だけではなく、科学や学問だって同じことかも知れない。
キュービズムとは何だったのか、相対性理論とは何だったのか、
時代と共に新しい概念が沢山生まれて来るのは何なのか。
それらは条件反射のように固まってしまった感覚や知覚を変えて、
本来の世界の多様さ豊かさをかいまみせようとして生まれたものだ。
新しいものに出会ってみたいと思い、
新しいものが生まれた瞬間に心が動くのはこのためだ。
前置きが長くなってしまった。
今日はポリフォニーのことを書きたい。
と言ってもポリフォニーは西洋音楽の概念であって、
僕がイメージしているのはもっと複雑でもっと原始的なポリフォニーのこと。
西洋音楽でいうところのポリフォニーとは多声音楽、
つまりはいくつもの違った線がそれぞれの声の流れに向かいながら、
重なって行くというようなものだ。
特徴的なのは主役となるラインが存在していないことで、
それぞれがみんなバラバラに動いているようで重なって来るということだ。
これまでもここで書いて来たことだが、様々な表現において、
多様なものが同時に動いている、という次元が扱われることが多い。
それが一つの究極の形なのかも知れない。
僕が時々書いて来た、沢山の時間を同時に生きるということも、
あるいは様々な経験が降り積もってその場で動き出すということも、
バラバラなものが同時に動き出すということも、ポリフォニーのようなものだ。
西洋音楽においてはフーガとか対立法とか、
たくさんの場面でポリフォニーが出て来る。
ルネッサンスやバッハは代表的な例だろう。
ただ、そこで言われる多声音楽、ポリフォニーというのは、
いかに複雑に見えても計算されたものであり、書き記すことが出来るものだ。
もっともっと複雑で即興性の高いものが存在している。
例えばピグミーの音楽。
これが頭にあったので最初にポリフォニーという言葉で言って良いのか迷った訳だ。
ピグミーの音楽は西洋のポリフォニーより遥かに多様性に満ちている。
ある意味でポリフォニーの原型と言えるかも知れない。
ここ数日、寝る時にはピグミーの音楽を必ず聴いている。
集中して聴き続けて来たので、今もずっと頭の中で鳴り続けている。
久しぶりに音楽に夢中になっている。
初めてピグミーの音楽のCDを聴いたのはもう10年近くも前だろう。
面白いと思ったし、奇麗だと思った。そして、時々聴いたりもしていた。
でも、本当の意味での出会いはまだだったのだろう。
音楽は良いなくらいのもので僕の前を通り過ぎていた。
お陰でずいぶん遠回りしてしまった。
もっと早く気づくべきだった。
これほど「場」に近いというよりは、「場」そのものな音楽は他に無い。
ほとんど無限に近い彼らの声の重なりを聴いていると、
途方も無い気分だ。まるで自分が誰だか分からなくなる。
全てが細部まで活き活きしていて、同時に鳴り響き、響き合う。
多様さ複雑さが多いほど全体の境界が存在しなくなる。
本当に場そのものだ。
これはあらゆる音楽の究極でもあるし、芸術ばかりでなく、
コミニケーションや、人間の在り方の究極でもあるとおもう。
やっぱりか、でもあり、なーんだ、でもあるのだけど、
努力して人が積み上げて来たものなんか、いったい何なんだろうと思わされる。
だって彼らはすべて持っているのだから。
ピグミーの音楽を聴いていると、人間がどんな存在なのか分かるし、
もっと言えばどうあるべきなのか、とかこの世界や宇宙の本当の姿が見える。
彼らは歌うことでそれを日々確認して響き合っているのだろう。
そして、何よりも素晴らしいのは、ここには特別な存在がいないことだ。
歌っている人達はみんな平等だし、プロもいない。
特別な努力だとか、特別な才能というものが必要だというのは、
僕達の世界の思い込みなのだと分からせてくれる。
そうかあ、やっぱりそうなのかあ、と感動する。
こんなに豊かで、全部持っている人達が生きている。
何かを創ったと思ったり、どこかまで行けたと思うのは錯覚なのだなと思う。
ある意味で最初から全部あるのだと、彼らの存在と音楽が教えてくれる。
たくさんの声が混ざり合っているのを聴いていると、
森が歌っているようでもあるし、宇宙の声だとも思う。
どこか、遠い場所に連れられて行くようで、
元の場所に帰って来たような懐かしさもある。
僕達が場に入る訳も教えられた気がする。
彼らが歌い、響き合い、世界と同化して行くのと同じように、
僕達も日々、場に入り、そこで喜び合う。
それが人として産まれて生きることの意味なのだと思う。
2014年11月5日水曜日
タルコフスキー
次の土日のアトリエが終わったらまた三重へ行って来ます。
今回も少し長くなりますが宜しくお願いします。
ご見学のご希望について、出来るだけ対応させて頂きましたが、
どうしてもお待ち頂いているままになっている皆さん、
本当に申し訳ない気持ちですが、年内の対応が難しいかも知れません。
12月の後半に佐久間が帰って来てから、少しでも調整させて頂くつもりですが。
12月は年末は居なければならないので、
1週、2週は関川君ゆきこさんで、3週、4週が佐久間となります。
さて、今週は人に会うことが多かった。
場に関してはその時間以外はすっかり別人になってしまうのが僕。
場を離れたらもう何もかも忘れてしまって、
また場に入ったら繋がりきる、という日々を送って来た。
そして、そうあるべきだと思って来た。
でも、最近はまたちょっと違っている。
場を離れても気持ちは場に残ったままのことがある。
深く入ったまま、抜け殻のようにぼーっとしてしまうこともある。
ちょっとそういうのがあっても良いかなとも思っている。
日常生活にはそんなに支障もないし。
僕の言う場は特殊なものなのだけど、ずっと付き合って来て、
やっぱり普遍的な部分があったり、
どんな人にとっても根源的なことなのではないかと思う。
場に入っているの時の感じは説明出来ないけれど、
タルコフスキー監督の映画の世界とにていると言ってみてもいい。
だから僕にとってタルコフスキーは単に好きな映画監督ではなくて、
特別な存在だ。
感謝さえしている。
タルコフスキーの映画を見てもらえれば、場の感覚がイメージ出来ると思う。
タルコフスキーは難解だと言われているが、誤解だと思う。
むしろシンプルすぎて人がつい深読みしてしまうのだと思う。
全て何かの例えや暗示ではなくて、直接的なイメージだと捉えると、
とても分かりやすい世界ですらある。
心の奥で映る世界がそのまま描かれているだけだと僕には思える。
その中でも最も正面から本質に迫ったのは「ストーカー」だろう。
その「ストーカー」が恐らく最も人気がない。
この映画は更に僕にとってはあまりにも場や自分の人生と重なる。
単純に言ってしまえば、ゾーンという場所に人を連れて行く案内人がストーカー。
ゾーンは謎で危険視もされていて立ち入り禁止になっていて、
入ると法律で裁かれたりもする。
ゾーンを心の奥にある場所と言ってしまえば、これはそのままの話だ。
心の奥の場所は危険でもあるし、ある意味で国家や制度で禁じられてもいる。
もっと言えば自分自身でも禁じていたりする。
案内人はそこへ人を連れて行く。
あまりにシンプルな話だ。
映画に感動しても、感情移入しても、そこに自分を見ることはないが、
「ストーカー」だけは別で、自分を見ているみたいな気になってしまう。
それはともかくとしても、移動しながらゾーンに入って行く場面が本当に凄い。
圧倒的だし美しいし、途轍もなく深い。
映像の素晴らしさはタルコフスキーの全作品に共通している。
こういう作品が最近レンタルビデオの店になかったりする。
とんでもない。
そういえば「かくも長き不在」という素晴らしい映画も、
どこへ行っても見られなくなっている。
やっぱりこういうのは何とかした方が良いだろう。
本でも音楽でも同じことが起きている。
「ストーカー」は僕にとって、
フェリーニの「甘い生活」、小津安二郎の「晩春」、
ビスコンティの「山猫」と並んで最も好きな映画だ。
この中で一番は選べないけど。
今回も少し長くなりますが宜しくお願いします。
ご見学のご希望について、出来るだけ対応させて頂きましたが、
どうしてもお待ち頂いているままになっている皆さん、
本当に申し訳ない気持ちですが、年内の対応が難しいかも知れません。
12月の後半に佐久間が帰って来てから、少しでも調整させて頂くつもりですが。
12月は年末は居なければならないので、
1週、2週は関川君ゆきこさんで、3週、4週が佐久間となります。
さて、今週は人に会うことが多かった。
場に関してはその時間以外はすっかり別人になってしまうのが僕。
場を離れたらもう何もかも忘れてしまって、
また場に入ったら繋がりきる、という日々を送って来た。
そして、そうあるべきだと思って来た。
でも、最近はまたちょっと違っている。
場を離れても気持ちは場に残ったままのことがある。
深く入ったまま、抜け殻のようにぼーっとしてしまうこともある。
ちょっとそういうのがあっても良いかなとも思っている。
日常生活にはそんなに支障もないし。
僕の言う場は特殊なものなのだけど、ずっと付き合って来て、
やっぱり普遍的な部分があったり、
どんな人にとっても根源的なことなのではないかと思う。
場に入っているの時の感じは説明出来ないけれど、
タルコフスキー監督の映画の世界とにていると言ってみてもいい。
だから僕にとってタルコフスキーは単に好きな映画監督ではなくて、
特別な存在だ。
感謝さえしている。
タルコフスキーの映画を見てもらえれば、場の感覚がイメージ出来ると思う。
タルコフスキーは難解だと言われているが、誤解だと思う。
むしろシンプルすぎて人がつい深読みしてしまうのだと思う。
全て何かの例えや暗示ではなくて、直接的なイメージだと捉えると、
とても分かりやすい世界ですらある。
心の奥で映る世界がそのまま描かれているだけだと僕には思える。
その中でも最も正面から本質に迫ったのは「ストーカー」だろう。
その「ストーカー」が恐らく最も人気がない。
この映画は更に僕にとってはあまりにも場や自分の人生と重なる。
単純に言ってしまえば、ゾーンという場所に人を連れて行く案内人がストーカー。
ゾーンは謎で危険視もされていて立ち入り禁止になっていて、
入ると法律で裁かれたりもする。
ゾーンを心の奥にある場所と言ってしまえば、これはそのままの話だ。
心の奥の場所は危険でもあるし、ある意味で国家や制度で禁じられてもいる。
もっと言えば自分自身でも禁じていたりする。
案内人はそこへ人を連れて行く。
あまりにシンプルな話だ。
映画に感動しても、感情移入しても、そこに自分を見ることはないが、
「ストーカー」だけは別で、自分を見ているみたいな気になってしまう。
それはともかくとしても、移動しながらゾーンに入って行く場面が本当に凄い。
圧倒的だし美しいし、途轍もなく深い。
映像の素晴らしさはタルコフスキーの全作品に共通している。
こういう作品が最近レンタルビデオの店になかったりする。
とんでもない。
そういえば「かくも長き不在」という素晴らしい映画も、
どこへ行っても見られなくなっている。
やっぱりこういうのは何とかした方が良いだろう。
本でも音楽でも同じことが起きている。
「ストーカー」は僕にとって、
フェリーニの「甘い生活」、小津安二郎の「晩春」、
ビスコンティの「山猫」と並んで最も好きな映画だ。
この中で一番は選べないけど。
2014年11月3日月曜日
一期一会
寒くなりましたね。
制作の時間は本当に充実。
仕上がった作品にはまだそんなに変化は出ないけど、
制作のプロセスはかなり変わって来た。
季節の変化はとても重要だ。
変わり目は特にエネルギーと注意力が必要。
気が抜けない。
イサにもここの場面をしっかり覚えてもらおうと思っている。
かれも以前と比べ仕事をしっかりおぼえて来たが、
更に筋金入りにならなければならない。
その時、その場が上手く行く場はクリアしたとしましょう。
次の段階はずっと先までもつ現場を。
一つ一つを怠りなく積み重ねていなければ、月日に耐える場にはならない。
勘やセンスだけの場は時間とともに失われて行く。
(勿論、勘やセンスはかなり大切なものなのだけど)
後でしまったと思わないために、
気がついた時には何故か枯れていたなんてことにならないために、
しっかりと基礎を固めて、日々の努力を積み重ねる。
僕自身も場に立ち続ける意味を噛み締めている。
場に立てるということが本当に有り難い。
思えば場が大切なことをみんな教えてくれたのだし、
場なくしては何も無かったとさえ思う。
世界は一つではないこと。別の知覚を得ることは可能だということ。
身体や心を変えることの可能性。
認識を分けて使うこと。
身体や心をバラバラにしたり分散させたりして、
さらにそれらを同時に動かすやり方。
たくさんの見方や感じ方。
教えられたことは本当に多い。
場に入らなければ分からないこと、見えないことが沢山あった。
場が無ければ、今の理解も経験も無かっただろう。
場の中で感じていることは無限なので、言葉で説明することは出来ない。
ただただ、濃い時間が流れて、いくつもの人生を生きているような感覚だ。
そこで流れた時間や行った場所や、それぞれの心と人生が、
もう一人の自分、というよりは無数の自分のようになっている。
僕達は無限の中にいるのだと実感する。
もう11月。
今年も残りわずかだ。
毎度言うことだけど、良い場にしたい。
たくさんの笑顔と美しい作品が生まれる場を。
場の中でまた作家達と生きたい。
一期一会ということを強く実感する。
制作の時間は本当に充実。
仕上がった作品にはまだそんなに変化は出ないけど、
制作のプロセスはかなり変わって来た。
季節の変化はとても重要だ。
変わり目は特にエネルギーと注意力が必要。
気が抜けない。
イサにもここの場面をしっかり覚えてもらおうと思っている。
かれも以前と比べ仕事をしっかりおぼえて来たが、
更に筋金入りにならなければならない。
その時、その場が上手く行く場はクリアしたとしましょう。
次の段階はずっと先までもつ現場を。
一つ一つを怠りなく積み重ねていなければ、月日に耐える場にはならない。
勘やセンスだけの場は時間とともに失われて行く。
(勿論、勘やセンスはかなり大切なものなのだけど)
後でしまったと思わないために、
気がついた時には何故か枯れていたなんてことにならないために、
しっかりと基礎を固めて、日々の努力を積み重ねる。
僕自身も場に立ち続ける意味を噛み締めている。
場に立てるということが本当に有り難い。
思えば場が大切なことをみんな教えてくれたのだし、
場なくしては何も無かったとさえ思う。
世界は一つではないこと。別の知覚を得ることは可能だということ。
身体や心を変えることの可能性。
認識を分けて使うこと。
身体や心をバラバラにしたり分散させたりして、
さらにそれらを同時に動かすやり方。
たくさんの見方や感じ方。
教えられたことは本当に多い。
場に入らなければ分からないこと、見えないことが沢山あった。
場が無ければ、今の理解も経験も無かっただろう。
場の中で感じていることは無限なので、言葉で説明することは出来ない。
ただただ、濃い時間が流れて、いくつもの人生を生きているような感覚だ。
そこで流れた時間や行った場所や、それぞれの心と人生が、
もう一人の自分、というよりは無数の自分のようになっている。
僕達は無限の中にいるのだと実感する。
もう11月。
今年も残りわずかだ。
毎度言うことだけど、良い場にしたい。
たくさんの笑顔と美しい作品が生まれる場を。
場の中でまた作家達と生きたい。
一期一会ということを強く実感する。
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書いている人
- 佐久間寛厚
- アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。