春になってきて、調子が悪かったりする人からの電話も増えています。
この時期は焦らず、悪い時は流れが変わるのを待つことも大切です。
僕自身も変化へ向けて準備に追われる日々ですが。
先日は埼玉で講演をさせて頂きました。
これまで以上に熱心な方々の集まりで、こちらも話に熱が入りました。
こうした書き物と違って講演は聞く人次第であったりもします。
真剣な人が多ければこちらも自然に真剣になります。
最近、色んなことがあったり、気づかされたりします。
人生ってすごいな、と今さらながらに思います。
過去のことでも今だから分かることも多いのですが、
僕が書いたり発言することで迷惑をかけてしまう人が居るので、
まだ言えないことがたくさんあります。
あえて書く必要も無いけれど、家族のこと、父や母のことなんかは、
やっぱり自分が歳をとって、こんな言い方はなんだけど、
みんな居なくなってからしか言えないことは多い。
自分がどれくらい生きられるかなんて分からないけど。
何故、こんな話から入ったかと言うと、今自分は楽しいと思うからだ。
あえて言えば幸せを感じるからだ。
僕の場合は、制作の場に立つこと、
一人一人が自分のこころの深くへ潜って行くとき、
一緒に行ってずっと傍に居ること、共感し共有し、一緒に見つけること、
それを仕事にして来た。
そして、この仕事がすべてを教えてくれた。
難しい仕事だ。辛いことも苦しいことも沢山ある。責任も重い。
でもそれ以上に素晴らしいものをたくさん見る。
人生を賭け、命を賭けられるものを持つことは幸せなことだ。
ちょっと特殊な経験をして来たけれど、そこで学んだことは大きい。
制作のプロセスを追って行くということは、
心の生の裸の動きを見て行くということだ。
心が何処で制御されているのか、どこから固まっているのか、
限界が作られて行くのか。どうすれば自由になるのか。
そんな動きをずっと見て的確に扱って行くためには、
敏感であらねばならないのは勿論だが、それ以上に制限や限界を知って、
それを外すことが出来なければならない。
それは人に対しても自分に対しても一緒だ。
そうやって行くと確実に見え方や感じ方が変わって行くし、
そうすると世界も変わる。人生観や世界観も変わる。
変わると言うより現在の僕の見解では無くなるという方が近い。
決まった見え方や感じ方が無くなって行く。
それが自由になって行くということでもある。
自由については以前書いたけれど、人は自由を恐れている。
何故なら自由とはいっさいの安全や安定を外すことだからだ。
何の保証もないということに気づくことだからだ。
誰も何も守ってくれるものは無いし、ここから先どうなるか全く分からない、
予想も出来ないという感覚こそが自由の一部だ。
こういう感覚は怖いが、いざその中に飛び込んでしまえば気持ちが良い。
僕達は小さな頃から植え付けられた思い込みで、
自分に限界を作り、不自由になっている。
その癖を取って行くことが大切だ。
どこかに安全や安心があるという思い込み。
こうすればこうなるという思い込み。
こうしたからこうなったとか、もっと言えば、あれはああでこれはこうだという。
木は木だと言うのも思い込みの一つだ。
木は木のような何ものかにすぎない。
ちょっと難しい話になってしまっただろうか。
一言で言ってしまえば、不確定こそが真実であり、
不確定こそが楽しいということだ。
確かだと確定出来ているものこそが幻想だといえる。
僕自身もちょっと前まではまだ確定出来るものがいくつかあった。
不確定は一つの領域だった。
でも、今は違う。不確定がほとんど全てになってしまった。
何一つ確定出来ない。
そうなって行くにしたがって自由になるし、楽しくもなる。
ふと周りを見渡したとき、そこにあるすべてが不確定で、
自分が誰なのか、はたしているのかさえも分からない、
そんな中に放り込まれていることに気がつく。
いつの間にかここにいる。
まだなにも知らないし、これからも決して分かるはずが無い。
無駄な思い込みや偏りを外した時にこうした不確定が見えて来る。
それを自由と呼ぶ。そこには常に新鮮さしかない。
分かるということは存在しない。
ただ分かると思い込むことで安心しようとしているだけだ。
安心は良いことだと思われているが、存在しない安心を求めるあまり、
様々な暴力が生まれ、自分も人も抑制し、気づかずに身動きがとれなくなっている。
そんな全てを捨てて、不確定の中に飛び込む。
それが創造するということであり、それが生きるということだ。
それが遊ぶこと、楽しむことだ。
この世界は本当は不確定だ。
不確定は面白い。