2014年3月14日金曜日

不確定

春になってきて、調子が悪かったりする人からの電話も増えています。
この時期は焦らず、悪い時は流れが変わるのを待つことも大切です。

僕自身も変化へ向けて準備に追われる日々ですが。

先日は埼玉で講演をさせて頂きました。
これまで以上に熱心な方々の集まりで、こちらも話に熱が入りました。
こうした書き物と違って講演は聞く人次第であったりもします。
真剣な人が多ければこちらも自然に真剣になります。

最近、色んなことがあったり、気づかされたりします。
人生ってすごいな、と今さらながらに思います。
過去のことでも今だから分かることも多いのですが、
僕が書いたり発言することで迷惑をかけてしまう人が居るので、
まだ言えないことがたくさんあります。

あえて書く必要も無いけれど、家族のこと、父や母のことなんかは、
やっぱり自分が歳をとって、こんな言い方はなんだけど、
みんな居なくなってからしか言えないことは多い。
自分がどれくらい生きられるかなんて分からないけど。

何故、こんな話から入ったかと言うと、今自分は楽しいと思うからだ。
あえて言えば幸せを感じるからだ。

僕の場合は、制作の場に立つこと、
一人一人が自分のこころの深くへ潜って行くとき、
一緒に行ってずっと傍に居ること、共感し共有し、一緒に見つけること、
それを仕事にして来た。
そして、この仕事がすべてを教えてくれた。
難しい仕事だ。辛いことも苦しいことも沢山ある。責任も重い。
でもそれ以上に素晴らしいものをたくさん見る。

人生を賭け、命を賭けられるものを持つことは幸せなことだ。

ちょっと特殊な経験をして来たけれど、そこで学んだことは大きい。
制作のプロセスを追って行くということは、
心の生の裸の動きを見て行くということだ。
心が何処で制御されているのか、どこから固まっているのか、
限界が作られて行くのか。どうすれば自由になるのか。
そんな動きをずっと見て的確に扱って行くためには、
敏感であらねばならないのは勿論だが、それ以上に制限や限界を知って、
それを外すことが出来なければならない。
それは人に対しても自分に対しても一緒だ。
そうやって行くと確実に見え方や感じ方が変わって行くし、
そうすると世界も変わる。人生観や世界観も変わる。
変わると言うより現在の僕の見解では無くなるという方が近い。
決まった見え方や感じ方が無くなって行く。
それが自由になって行くということでもある。

自由については以前書いたけれど、人は自由を恐れている。
何故なら自由とはいっさいの安全や安定を外すことだからだ。
何の保証もないということに気づくことだからだ。
誰も何も守ってくれるものは無いし、ここから先どうなるか全く分からない、
予想も出来ないという感覚こそが自由の一部だ。
こういう感覚は怖いが、いざその中に飛び込んでしまえば気持ちが良い。

僕達は小さな頃から植え付けられた思い込みで、
自分に限界を作り、不自由になっている。
その癖を取って行くことが大切だ。
どこかに安全や安心があるという思い込み。
こうすればこうなるという思い込み。
こうしたからこうなったとか、もっと言えば、あれはああでこれはこうだという。
木は木だと言うのも思い込みの一つだ。
木は木のような何ものかにすぎない。

ちょっと難しい話になってしまっただろうか。
一言で言ってしまえば、不確定こそが真実であり、
不確定こそが楽しいということだ。

確かだと確定出来ているものこそが幻想だといえる。

僕自身もちょっと前まではまだ確定出来るものがいくつかあった。
不確定は一つの領域だった。
でも、今は違う。不確定がほとんど全てになってしまった。
何一つ確定出来ない。
そうなって行くにしたがって自由になるし、楽しくもなる。

ふと周りを見渡したとき、そこにあるすべてが不確定で、
自分が誰なのか、はたしているのかさえも分からない、
そんな中に放り込まれていることに気がつく。
いつの間にかここにいる。
まだなにも知らないし、これからも決して分かるはずが無い。
無駄な思い込みや偏りを外した時にこうした不確定が見えて来る。
それを自由と呼ぶ。そこには常に新鮮さしかない。

分かるということは存在しない。
ただ分かると思い込むことで安心しようとしているだけだ。
安心は良いことだと思われているが、存在しない安心を求めるあまり、
様々な暴力が生まれ、自分も人も抑制し、気づかずに身動きがとれなくなっている。

そんな全てを捨てて、不確定の中に飛び込む。
それが創造するということであり、それが生きるということだ。
それが遊ぶこと、楽しむことだ。

この世界は本当は不確定だ。
不確定は面白い。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。