2014年2月26日水曜日

予感

のどかな良い天気で平和に見えるのに、大気汚染が恐ろしいことになっていて、
気がつかないところでどんどん悪い方向へ向かっている。
気をつけようと言っている場合ではなくて、
もはや気をつけて解決出来る場面ではない。

原発も含め、とんでもないところまで来てしまった。

諦めてはいけないし、もうしょうがないと思ってしまってはいけない。
でも現状は冷静に、そして重く受け止めるべきだ。
その上で、小さなことでも何が出来るのか考える。

アトリエも今後、小さくても良いから永続可能な環境を創っていきたい。
そして、ここから先は協力してくれる人が必要となる。
これまでのように僕達だけではこれ以上進まない。
力にも時間にも限界があるし、物理的にも難しい。
だからここはしっかりと協力チームを創って行く時期だと思う。

この世界にある秩序や人のこころの中にある調和について、
何度もテーマにして来た。
それこそが今、人類に求められているもので、
そのヒントがここにいる作家達にあると確信している。

彼らの描く作品は絶妙な調和を持っているが、
良く受ける質問の一つに「これは何処から描き始めたのですか?」というのがある。
勿論、最初から見ている僕らには答えは簡単だ。
でも、その時、立ち止まって作品を見ると、本当に不思議な感覚になる。
いったい何処から始めたのだろう、と。
一枚の絵の中でしっかりと完結していて、
そのようにしかなりようがなかったとすら思えるからだ。
もっと言うなら何処から描き始めていようと、必ずこうなったのではないか、
と感じてしまう。
だからこそ調和がそこにある。

このことは何かしら大きなテーマを含んでいる気がする。
もうそれこそ人生の深淵に触れているのではないか。
大きく捉えるなら、それはこういうことだ。
すべての向かうべき方向は予め決まっている。
一人一人は全く自由に自発的に描くが、そこにはすでにある秩序が働いていて、
その働きが必ず一つの場所へと導いていく。

すべては最初から決まっている、という感覚を否定出来ない。
これは人生や世界に対しての重要なキーかも知れない。

例えば、良くあるテーマとして運命論というのがあって、
もし運命が決まっているのなら、変えることは出来ないのか、
とか自由意志があるのかとか、そういうことを考えたことがある人は多い。
そこで、思うのだが、すべては決定的に最初から決まっているということと、
自由や偶然が全く矛盾しないということはあるだろうか。
言葉では矛盾してしまうけれど、僕はそのような感覚になる。
つまりはこの世界は偶然に満ちていて、人は自由で、
変えて行く力を持っているけれど、すべては最初から決まっている、と。

人生の中のある場面で、完全な秩序や調和を感じる瞬間がある。
葉っぱが散る光景や、誰かが居て、何かをしていて、その場面がピタッときまる。
映画を見ているような瞬間。
何もかもがあるべき場所にあるという感覚。
その時、人は美を感じる。すべては無駄ではない。すべては美しいと。

僕自身のことで言うなら、ものごごろがついてころから、ずっとある感覚がある。
なにかに確かに守られているという感覚だ。
それはどんな時でも感じていた。
守られている、包まれている、だから大丈夫なのだ、と。

苦難と困難の連続だった幼少期からの日々の中で僕がやって来れたのは、
この感覚のお陰だった。
反骨精神や強さを学んだし、それがいかに大事かも知っている。
でも、それらが自分の元だったとは思わない。
元にずっとあったのは守られているという感覚だった。

もし、この世界のすべてが予め決められていて、
それらは完全な秩序の中にあるとしたら。
何もかもが完全で、あるべき場所にあるのだとしたら。
守られているという感覚の正体はこの調和への確信なのではないか。

そこで考える。
美とは調和の予感なのでは、と。
おそよ大切なもののほとんどは予感と関係している。
そして自由な動きは予感をはらんでいる。
調和への予感。

彼らの作品を見ているとそのようなことを感じさせられる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。