東京のお盆は本当に静かだ。
倉庫に作品を取りに行って、いくつか準備する仕事がある。
悠太はハイハイから、掴まり立ち、最近はつたい歩きが出来そう。
それから、ちょっと言葉が出そうな感じにもなってきた。
まだ時間はかかるのだろうけど。
いつも、一番大切な事を書いているつもりだ。
ダウン症の人たちを通じて書いて来たけど、別に彼らを特別視している訳ではない。
ただ、彼らを通して人間の普遍的な何かが見えるはずだと感じて来た。
ここで、ずっと感じてきたことは本当に大切な事だと思うし、
増々、現代の課題となってきている。
今こそ、これまで取り上げて来たようなテーマが重要になってくる。
これから先、私達は本当に危機感を持って生きていかなければならない。
何がおきてもおかしくない、そんな時代だ。
価値観も変わっていくだろう。
信じられるものは少なくなっていく。
これまでの、家も仕事も生活も、いつまでこのままでいられるのか分からない。
何もあてに出来ない。
私達はもう一度、裸になって何もないところから始めるしかない。
ダウン症の人たちや、このアトリエの場や作品の力が、
本当の意味で役立つ時が来たのだと思う。
すべてを前向きに捉えてみよう。
感覚や感性の力を取り戻すチャンスとして。
人間にとっての本質的な生き方に立ち返る機会として。
信じられるもの、信頼出来るものが一つだけある。
それこそが感覚の力だ。
これまでは感覚の力を妄信するなということを、言い添えて来た。
何故なら自分の感覚というものは、狂いやすくもあるからだ。
でも、そんなことを言っている場合ではない。
少なくとも、我々が大事にしすぎている頭よりははるかに正確なのが感覚だ。
考えて上手くいくことなんかほとんどない。
その証拠が今の文明だといえる。
考えによって、頭で作られているのが今の文明だ。
考えることやめること、頭を使わないこと、
全身の感覚だけになること、このことほど重要なことはない。
それを忘れてはならない。
頭と計算という保健をかけていては、感覚の力は機能しない。
感覚だけになってしまえば、必ず本能が強く働く。
感覚を信じて、信頼することだ。
制作中の彼らのように。
頭を使いすぎるから、感覚が死ぬ。
持ちすぎているから、武装しているから、守りすぎているから、
感覚が動かない。
作品に向かう作家たちばかりではない。
スタッフとしての役割も同じだ。
本当に難しいケースや、どこへ行っても、何をやっても心が閉ざされたまま、
という人を前にした時、どうすべきか。
考えて何かが出来るはずがない。
方法論や技術が何かを出来ることもない。
経験すらもことを難しくするだけだ。
僕なら何も考えない。直にその人に入って行くだけだ。
それで確実に何かが変わる。
生きると言うことは本当はそういうことだ。
僕達は何も持たずに、感覚だけを頼りに世界へ向かっていく。
たくさんのものを貰うだろう。
もらったら、返していけば良い。
そうやってグルグル回っていく。
こんな時代だけど、感覚を取り戻していけば、まだまだやり直せるはずだ。
新しい環境を創っていけるはずだ。
次の時代はまた何もないところから始まらなければならない。
例えば、僕は昔のことに興味がある。
古代の人はどんな世界を生きていたのか。
そういうことは学者が研究している。
僕もかつてはそういう本をよく読んだ。
でも、自分がその領域に入って行った時、全く違うものが見えてくる。
その領域とは古代の人とかそういうことだが、
彼らがどんな風に生きていたのかは、学者や学問では分からない。
感覚はそれを捉えることが出来る。
そして、感覚の方が遥かに正しい。
科学で分からないと言われていることはたくさんある。
それは、その方法では分からないということだ。
人間は本来、感覚を通してすべてが分かる。
人のこころの領域にふれ、それをテーマに実践して来たから、
僕にはその確信がある。
裸になることだ。そうすればすべてが見える。
でも、裸になることはとてもとても難しいことだ。
本当の生き方を見つけよう。
こんな風に生きられるということを、これからの時代を創る人達で証明しよう。
ダウンズタウンを創る。
それに共鳴する人達がいるということは、
みんなが何かを感じ始めているということだ。
人類はこっちの方向へ進むべきではないのか、と。
感じよう。感じたことを信じよう。
そして力を合わせ、繋がりを創ろう。
みんなで創ろう。